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移民の国アメリカで体験する移民・難民の「現実」

日本人には分かりにくい異文化・異環境の人々との接し方を考える

酒井吉廣 中部大学経営情報学部教授

Craig F Scott/shutterstock.com

 朝日新聞デジタルの9月2日版に「ハーバード大合格の難民、米が入国拒否 理由はSNSか」が、続いて9月3日版には「ハーバード合格の難民、一転入国認められる 無事入学へ」が掲載された。具体的には、レバノンに住むパレスチナ人の男子学生が8月23日、アメリカからいったん入国を拒否されたものの、NPO等の支援組織の努力もあって9月2日に入国を認められたというものだ。まずはハッピーエンドの話である。

 彼に関する記事は、9月4日のニューヨーク・タイムズにも掲載された。同紙はリベラルなメディアで、この問題の根深さを陰に陽に掘り下げている。

 このような学生の例は、日本人にとっては珍しく興味深い話ではあるが、アメリカでは過去から現在まで日常茶飯事である。逆にこれが新聞に掲載されるということが、2001年の9・11テロ事件以降、イスラム教徒への対応が厳しさを増す流れがトランプ政権になって一段と加速している現実を、あらためて感じさせる。

 アメリカで生活していると、移民は当然として、難民との接点ができることも少なくない。ことに企業経営等をしていると、彼らの私生活に触れる機会が増え、難民や移民と言っても、出身国によってアメリカに来てからの立場や生き方が異なる事実がわかる。

 日本も今後、移民の受け入れ拡大はもとより難民が増える可能性もあるだろう。そのときのために、本稿では筆者の経験を書いておきたい。

移民と難民では異なる入国直後の生活

 センサス統計によれば、アメリカにおける2017年の全移民の数(難民を含む)は4450万人、全人口の13.7%にあたる。統計開始以来最低だった1970年の4.7%以降、経済の伸長等により、アメリカへの移民が拡大を続けた結果だ(ちなみに過去最高は、1890年の14.8%)。

 一方、2018年に入国を許可された難民は2万2491人。アメリカは入国できる難民の数に上限を設けているが、現在の厳しい移民政策を受けて、2019年の上限数は前年の4万5千人から3万人に縮小している。

 移民とは、難民を含めてアメリカの外で生まれ、現在はアメリカで生活している人を指す。市民権を持たなくても、永住権保持者や就労ビザ、学生ビザで入国している人、及び違法に入国している人すべてを指す(ここでは、難民以外を移民として記載する)。仕事で駐在する日本人も定義上は移民に入るわけだが、本稿ではそれ以外の移民を対象とする。

 アメリカでは、1965年の移民法と1980年の難民法の二つの法律に基づいて移民を扱っているが、入国した後の生活についての法的立場は二つで実質的にほとんど差がない。とはいえ、実際の生活を見ると移民と難民では入国直後の生活は大きく異なる。

 難民の場合、政治上などの理由で迫害を受ける恐れから逃れるべく急いで出国しているため、アメリカで生きる準備をしてきていない例が多い。そのため、生活を安定させるまでに時間がかかる。一方、移民は不法移民を含めてある程度、アメリカでの生活を準備して入国しているため、入国してしまえば結構、普通に生活を始める例が少なくないようだ。

 ただし、移民した直後や不法移民の場合は最低賃金以下で雇われることがほとんどで、決して楽な生活ができるわけではない。彼らが最低賃金以下となるのは、銀行口座をつくれず現金での給与支給となるためだ。記録に残らないので、雇用者ができるだけ安く雇おうとするのだ。不法移民の場合は、就労自体が違法なので、闇就労として一段と安くされることが多いという。

oneinchpunch/shutterstock.com

移民の“運命”を分けるコミュニティーの有無

 移民の“運命”を分けるのは、受け入れてくれるコミュニティーがあるどうかによる。具体的には、同じ国の出身の人たちが固まって住んでいる場所があるかないかである。

 ニューヨークやワシントンには出身国別の“地域”があり、そこに行けばその国の料理を出すレストランがあるだけでなく、街の雰囲気までその国に近い。典型は中華街であるが、中南米諸国やベトナムなどの街もある。

 こうした街に集う人は、民族としての同族意識を持ち団結力が強い。そこで、新しい移民もここに住めば生活を始めることが可能なのだ。実際、筆者が知る移民(現在は正式に米国人になっている)も、不法移民としてアメリカに来た頃に雇ってもらえたレストランがあり、そこでは今も(すべて合法移民ながら)入国間もない人が働いている。

 また、どの国の移民であっても、ある国の出身者を雇うと、同国出身の者を雇って欲しいと頼まれるケースもよくある。コミュニティー的な「互助会システム」が機能しているのを感じる。

 「互助会システム」といえば、インド人や中国人などアジア民族のつながりの強さを感じるが、なかでも韓国人の強さが一番ではないかと思う。韓国人は朝鮮戦争(1950年~52年)からしばらくの間に渡米した人が多いとのことで、東海岸だけでなく西海岸でも大都市の周辺に韓国人コミュニティーがある場合が多い。現在では、ハングルを掲げる韓国人教会もあり、場所によっては他のどの国のコミュニティーよりもアメリカでそこで力を持っている。

 ちなみにアメリカへの移民の出身国トップ10(2017年)は、メキシコ(25%)、インド、中国(ともに6%)、フィリピン(5%)、エルサルバドル、ベトナム、キューバ、ドミニカ(ともに3%)、韓国、グアテマラ(ともに2%)だ。これらの国の出身者を累計すると、全移民の57%を占める。

 難民といえばパレスチナ人を連想するかもしれないが、トップ10に入っていない。パレスチナ難民の国連の定義が、1946年から48年までにパレスチナ(現イスラエルの居留地)に居住し、イスラエル建国(48年)でそこから追われた人を指すため、今やその子や孫は難民にはならないからのようだ。アメリカに来る場合も、難民としてではなく、旧パレスチナからいったん逃れた国の国民として来るという対応をしているようだ。

永住権取得、市民権獲得をめぐる実態

 アメリカでの暮らしが長くなると、難民と移民の差は二つの点を除いて次第になくなる。

 差がある二点のうちひとつは、難民は米国民ではないため、アメリカの政府系機関では働けないということだ。ワシントンのシンクタンクで働く場合も、少なくとも以前は、米国民かどうかで仕事の内容に違いが出ることがあった。外国人はアメリカのためではなく、自分の国のために働くという考え方に基づいており、ある意味当然である。

 ふたつ目は、難民には出入国が自由ではないという点だ。アメリカでは出国がかなり自由なため、難民のなかにはカナダなどに出国する事例がある。しかし、その場合、再入国は(法的な問題というよりも)実務的に極めて大変になる。私がいた職場の人も、それで大変な思いをした人がいる。

 従って、彼らは出来るだけ早く市民権を取ることを目指す。移民の場合も、永住権や市民権を取得するために努力する。通常は、企業などの組織に勤め、そこにサポートしてもらって永住権や市民権を獲得するというやり方をとる。しかし、現実には、それ以外の方法も様々ある。

 先月、ミシガン州の中国系アメリカ人が来年の下院議員選に共和党から立候補すると宣言したが、彼女はテレビのインタビューで、10歳の時に旅行でアメリカに来たまま不法移民として居つき、米国人と結婚したことで米国民となったと語った。実際、彼女のようなプロセスで米国市民権を獲得する例は、結構あると聞く(筆者もその例を複数知っている)。

 また、アメリカに来て子供が生まれれば、その親は永住権を取得できる。このパターンは、特に中南米からの移民に多いようだ。ちなみに、永住権取得から市民権獲得までの期間は平均して8年かかると言われている。

 なお、日本人の駐在員でも、アメリカに勤務している時に子供が生まれ、その子に将来の国籍選択の権利(18歳で日本国籍が米国籍かを選ぶ)が生じるという事例も意外と耳にする。

Evgenia Parajanian/shutterstock.com

言葉の壁に苦しむアジアからの難民

 とはいえ、難民の場合は、先に述べたように準備不足のままアメリカに来ることが多いこともあり、生活はなかなか大変なのが実情だ。

 筆者がアメリカで知り合った難民にも、夫が大学教授、妻が公認会計士という夫婦がいた。どちらも英語が話せないため、最初は資格に見合った職業にまったく就けず、車の免許も簡単には取れなかったらしい。難民とわかると、それだけで差別的な扱いをする企業もあったらしい。

 幸いこのご夫妻は母国語がスペイン語だったため、ヒスパニック・コミュニティーの中で自国の人たちがつくる街に住み、英語を猛勉強し、二人ともそれなりの給与を得られるポジションについた。

 これに対し、アジアから来た難民の家族の場合、言葉の壁は高く、家族全員の生活が安定するまでにより時間がかかるようだ。ある家族は子供が4人いたが、長男と長女は高校生のうちから、生活の足しになるようアルバイトをさせられた。親戚の経営するレストランのボーイとウェートレスが急に必要になったので、すぐに早退するようにと授業中に親から電話がきて、教師が驚いたというエピソードもある。また、筆者の見るところ、アジア人の難民はヒスパニックや黒人など他の人種からも差別されている印象があり、生きていくのはとても大変だと感じた。

 ところで、難民は何度生活する国を変えても、難民に変わりはない。他の国で難民だった人はアメリカに来ても難民だ。それは、難民として生活している限り、居留国で国籍を取れないからである。従って、アメリカであれどこの国であれ、まずはそこの国籍を取得することが、彼らにとって最適な選択となる。

「パレスチナ難民=生活困窮者」は今は昔

 冒頭のパレスチナ人男子学生の話に戻ろう。

 日本人にとって、難民と言えば、イスラエルの建国とともに国を失ったパレスチナ難民がすぐ思い浮かぶ。既述のような国連の定義には当てはまらないが、UNRWA(近東に住むパレスチナ難民の問題解決支援機構)がその子孫も含めるように作った基準に基づいて難民登録をしているパレスチナ難民は500万人いると言われる。彼らのうち、150万人は難民キャンプに住んでいるが、残りは普通の場所で暮らしている。

 UNRWAの基準は、国連のパレスチナ難民の定義とは異なっているうえ、男系の子孫は登録申請を出来ることから、基本的にはUNRWAに難民登録したパレスチナ人は永遠にいなくならない。ただ、難民とは言っても、男女の違いが存在し、女系の子孫はパレスチナ難民としてのサービスは受けられても、難民登録による証明カードは受け取れない、とのことだ。

 アメリカにもパレスチナ人は少なくないが、その多くは国連が定義する難民ではない。繰り返すが、パレスチナ人が難民になったのは1946年~1948年の間なので、仮にアメリカに来た際には難民であっても、その後に市民権をとり、子供は普通の米国人となっている場合が多いからだ。最初に移り住んだ国の国籍を持つ人々も少なくない。

 アメリカで長く暮らした結果、あるいはその他の国でも努力して働いた結果、難民となった「一代目」」から半世紀上経った現在、富を得た人々も少なくない。国連や国際機関に勤めるパレスチナ人も多い(身の上話に及ばなければ、中近東の人ということ以上はまったくわからない)。「パレスチナ難民=生活困窮者」というステレオタイプのイメージは、今は昔なのだ。

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