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日本政治を呪縛した「改革」の号砲

平成政治を問い直す【2】政治改革の「必然性」と陥穽

大井赤亥 東京大学非常勤講師(政治学)

「改革派」の誕生をめぐる小沢一郎の謎

 このような政治改革のエネルギーは、1990年代初頭の自民党で圧倒的な支配力を誇った竹下派の内紛と結びついていく。竹下派のトップは竹下と金丸であり、その下に「竹下派七奉行」と呼ばれる若手実力者が揃っていた。しかし、不正献金によって金丸が会長を辞任すると、後継会長をめぐり、羽田を担ぎ出した小沢グループと、小渕を推薦した竹下らとに分裂していく。ここにおいて小沢は、派閥内の権力闘争を政治改革という大義で正当化していったのである。

 1992年、後継会長として小渕が選出されると、小沢はこれを不服として「改革フォーラム21」(羽田派)を結成し、ここに自民党最大派閥の竹下派は分裂する。「改革フォーラム21」は、自民党内から選挙制度改革と行政機構の縮小刷新を求める勢力、すなわち自民党「改革派」の誕生であり、ひいては保守政治内部からの「改革派」の登場、すなわち「改革保守」の赤子であった。

拡大「改革フォーラム21(羽田派)」の結成式で乾杯する羽田孜代表(中央)と小沢一郎氏(左)=1992年12月18日、東京都千代田区

 ここに、政治改革と政界再編とは二つの渦をなして交錯合体しながら、その帰趨は「自民党『改革派』のスタミナとエネルギー」(佐々木毅)に賭けられることになった。

 長年にわたり政権を担当してきた自民党にあり、その統治を維持しようとする「守旧派」の立場は理解しやすい。しかし、「自民党の旧来型システムにおける最大の成功者」(野中尚人)であった小沢一郎が、なにゆえ自民党を飛びだし、外からそれに闘いを挑もうとしたのか、権力維持の合理性という観点からは理解しづらい。

 1991年、竹下派の実力者にあった小沢は、「ぬるま湯に浸った万年与野党を一回ガラガラポンする」ことによって「健全野党を作る以外にない」と述べている。そうであれば、自民党「改革派」は、与党でありながら「健全野党の創出」を唱え、与党でありながら「政権交代の必要性」を訴えるという、いわば利敵行為ともいえる矛盾をまじめに追求していたことになる。

 自民党「改革派」の動機については論理的な説明が難しく、政治学者の見立ても多岐にわたっている。たとえば佐々木毅は、自民党「改革派」には「自民党を超えた日本の大状況に対する使命感が存在した」(注1)と指摘する。あるいは成田憲彦は、小沢は「日本の政治システムの欠陥」を是正するために自民党を犠牲にしたという(注2)。他方、渡辺治は小沢の目的を「新自由主義改革」に求め、それゆえ小沢は「改革を競い合う保守二大政党制、多数党に裏付けられた強力な政府、改革法案をところてんのように通す国会づくり」を必要としたという(注3)。総じて、小沢の動機についてはいずれの政治学者も

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筆者

大井赤亥

大井赤亥(おおい・あかい) 東京大学非常勤講師(政治学)

1980年、東京都生まれ、広島市育ち。東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。博士(学術)。現在、東京大学の他、法政大学、成城大学、昭和女子大学、東京理科大学で講師を務める。著書に『ハロルド・ラスキの政治学』(東京大学出版会)、共著書に『戦後思想の再審判』(法律文化社)など。

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