福島原発事故、東電よりも罪が重い原子力行政
東電旧経営陣無罪判決を見て感じた裁判が焦点を当てきれていない論点
田中秀征 元経企庁長官 福山大学客員教授

(左から)メモを取りながら東京地裁の判決を聞く武藤栄・元副社長、武黒一郎・元副社長、勝俣恒久・元会長=2019年9月19日、絵と構成・小柳景義
2011年3月に発生した東京電力福島第一原発事故をめぐり、業務上過失致死傷罪で強制起訴されていた東電の旧経営陣3人に19日、東京地裁がいずれも無罪とする判決を言い渡した。法廷の傍聴人からは「え~」とか「うそ!」といったどよめきが起きたという。
この裁判で3人が同罪に問われるかどうかのポイントは、①巨大津波を具体的に予見できたか(予見可能性)②対策を講じて原発事故を避ける義務があったか(結果回避義務)――の2点だったという(朝日新聞9月20日付け朝刊)。私の関心もそこにあったし、他紙でもほぼ同じ論調だ。
ただ、同時に私は、事故が発生して以来、行政の責任についても強く指摘してきた。しかし、今回の報道を見る限り、そこに裁判の焦点があたった感じはしない。
問題の根源にある行政の罪
実は、事故発生の直後、私は雑誌『世界』(2011年7月号)に関連する論考を発表している。本稿を書くに当たり、再読してみた。「問題の根源は“偽装民主主義”だ」というタイトルに、事故から1、2カ月しか経っていない頃に私が抱いていた激しい感情が表出している。
当時から私が見据えていたのは、“原子力行政”であった。多少長くなるが、その論考の一部を引用させていただく。
東電を上回る行政の罪
三月一一日の大地震が発生してほぼ一時間後、大津波が福島第一原発を襲って1~4号機の全電源が喪失した。(中略)
関係者がこの災害を本気で避けようとすれば容易に避けることができたのだから、紛れもなく“人災”である。
この事故を招いた東京電力の罪は非常に重いが、指導・監督してきたはずの行政の罪はそれをはるかに上回っている。
私はかねてから、日本の統治構造の致命的な欠陥は、多くの行政分野で、チェック機能が麻痺し、機能不全に陥っていることだと警告してきた。
その結果が最悪の形で露呈したのが今回の原発事故である。
政府や関係者が事故対応に追われる中、さまざまなメディアを通じて、佐藤栄佐久前福島県知事の的を射た発言が伝えられた。
「今回の事故は東電以上に国に責任がある」
「日本には本当の民主主義がない」
挙句は、原子力行政と東京電力の癒着関係を「警察と泥棒が一緒にいるようなもの」と激しく批判した。(中略)
彼は長年にわたって、“原子力村”と刀折れ矢尽きるまで闘ってきた人。第一級の体験者の認識であり発言であるから重みが違う。(中略)
昔の佐藤氏は、私と同じように、原発の推進派でも反対派でもなく、言わば容認派のように見受けられた。そのことも今回彼の発言に注目した一因である。大震災後私は彼と二度会って、その体験談を詳しく聞くことができた。やはり私と問題意識は全く同じであった。