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小沢一郎が語る「自民党幹事長」時代のこと

(16)リクルート事件、湾岸戦争、都知事選そして幹事長辞任

佐藤章 ジャーナリスト 元朝日新聞記者 五月書房新社編集委員会委員長

バブル絶頂に発覚したリクルート事件

 文字通り時代の変わり目の渦中にいたのだと実感する。1989年1月7日午後、竹下登内閣の小渕恵三官房長官が「平成」と書かれた額を掲げ、私はその映像を東京・霞が関の大蔵省(現財務省)の記者クラブ「財政研究会」(財研)にあるテレビ画面で見ていた。

 このころはちょうど消費税の導入前夜の時期で、財研に所属していた私は、自民党税制族の大物議員宅にしばしば応援の夜回りをさせられていた。財研はバブル景気に浮かれる世間とは切り離された空間で、私を含めた疲れ切った記者たちの目がブラウン管に注がれていた。

 このテレビ自体も記者クラブ室も古ぼけたもので、今思い返してみる部屋のイメージは大蔵省内にある穴蔵、当時のイメージは社会から隔離された牢獄だった。労働形態は今の言葉で言えば「ブラック」そのもの、早朝から深夜まで果てしのない仕事の山脈が連なっていた。

 当時の私の担当は主税局や主計局ではなく、俗に「雑局」と呼ばれていた銀行局、証券局、国際金融局、理財局、関税局の5局だった。しかし俗称とは裏腹に、5局が抱える事案は重量級のものばかりで、時代の急激な変化に応じて法制やシステムの変更が相次いでいた。

 それに加えて銀行や証券会社を舞台にした経済事件が続々と露見し、息つく暇がなかった。そして、次々に露見する経済事件の中で最もニュースヴァリューが高かったのは、戦後最大級の贈収賄事件と言われたリクルート事件だった。リクルート経営者が値上がり確実な子会社の未公開株を政財界の大物たちに配り収益を得させていた。

 未公開株は当時の竹下首相や宮沢喜一蔵相、中曽根康弘前首相ら政界要人の関係者、さらには財界や当時の日本経済新聞社社長らにも配られ、竹下自身はこの事件で首相を辞任した。

 リクルート事件は二つの意味で時代の画期となった。ひとつは経済的な意味で、未公開株は公開と同時に100%確実に値上がりするという事実。これはバブル経済で絶頂に達した右肩上がり経済に起きる現象で、バブル経済の破綻とともにこの神話も終焉を迎えた。

 もうひとつは政治的な意味で、100%値上がり確実な未公開株を賄賂的な趣旨を込めて政治家に配る意義が問い直された。つまり、未来永劫政権に就いていることが保証された政治家たちに賄賂を送ることはマキャヴェリズム的に言えば有効だが、政権交代が起こるとすれば無効となる。

 当時の日本政界において、この問題意識を深く胸のうちに秘めた一人の政治家がいた。この時、この構造的な問題を考えていた政治家は少なからず存在していたかもしれないが、実際に政権交代可能な選挙制度の設計から現実の政権交代まで成し遂げてしまった政治家はたった一人しかいない。

みんなが無理だと思っていた小選挙区制

 小沢一郎は、竹下内閣では内閣官房副長官として野党対策に尽力。日米間の建設市場開放協議や後の日米電気通信協議では日本側交渉役を務め、米政府内に「タフ・ネゴシエーター」として知られるようになった。リクルート事件後に成立した海部俊樹内閣では自民党幹事長に就いたが、小沢のインタビュー本『90年代の証言 小沢一郎 政権奪取論』(五百旗頭真ら)では、政治改革を具体的に推進し始めたのはこの幹事長の時からだと小沢は答えている。

――リクルート事件の後、政治改革をどのように進めるかという問題をめぐって、後藤田正晴さんと伊東正義さんの二人が幹事長の小沢さんのもとを訪れました。この時、小沢さん自身は本格的に進める考えでしたが、後藤田さんと伊東さんの二人はそれほど積極的ではなかった、ということですね。

小沢 日本人には多いと思うけど、政治家をはじめパフォーマンスだけという人が多い。この時も、「幹事長、どうする?」と聞くから「小選挙区でやります」と私は答えました。そうしたら、二人とも黙ってしまった。「そんなことは、まあできないでしょう」という意味です。それで私は「では、あなた方は何をしようと思っているんですか」と聞いたら、「いずれやる」というお題目の法案を作りたいと言うわけです。要するに先送りですね。

――そう言ったわけですか。

小沢 うん。「それが精いっぱいじゃないですか」と二人は言うわけです。「それだったら私はやりません。そんないい加減な話はないでしょう」と私は言いました。「本気でやりますか」と私が強く言ったら、二人は驚いて帰って行ってしまいました。

――小沢さんがずっと考えていた政権交代可能な小選挙区制というものをぶつけたら二人とも足がすくんでしまったということですね。

小沢 彼らだって言っていることは小選挙区制なんです。だけど、それはどうせできっこないという頭があるんです。当時の政治家はみんなそうだったですね。

 それまでの中選挙区制は1選挙区の当選者が3人から5人なので自民党の複数の派閥候補が当選できた。自民党当選者に加え、社会党や公明党などの野党候補も当選できたので与野党の候補は安泰、その代わり自民党の政権確保もほとんど約束されたものとなっていた。万年与党・自民党、万年野党・社会党という1955年体制維持を約束する選挙制度だった。しかし、小選挙区制は1人しか当選できないため、いずれの選挙区も与野党激突となり、政権交代が起こりやすい。リクルート事件後の政治改革の焦点はこの小選挙区制の導入に絞られていた。

――その時に、後藤田さんも伊東さんも、普通の自民党議員であれば、お題目としては小選挙区は必要だろうが、現実的に導入するのは無理でしょうという考えに支配されていたわけですよね。小沢さんは、そんな現実論をはねのけてもやってやるんだという気構えがあったわけですか。

小沢 うん。何でもやる気になればやれるということです。いいと思うことならやれるじゃないですか。自民党は多数を持っていたわけですから。だけど、彼らは多数決の話ではなくて、いろんな選挙区調整やら何やらの複雑な話に巻き込まれるのはいやだという話なんだ。

選挙制度改革について朝日新聞のインタビューに答える自民党幹事長の小沢一郎氏=1990年5月
――年齢的なこともあったのでしょうか。後藤田さんも伊東さんも小沢さんに比べてかなり高い年齢層だったからとてもそこまでの元気さはないよ、という感じだったのでしょうか。

小沢 年齢じゃない。頭がそうなっているんだ。若い人だって、どうせできっこないと思っている人がたくさんいた。日本人は体制順応型の人が多いような気がする。革命とか改革とかそういうものにほど遠い人が多いと思う。ぼくは、自民党の総務局長もやってるからね、その前に。だから、そんな選挙区事情なんか彼らよりもよく知っている。知った上で、そういう調整もやればやれると。

――そういうことをやった上で、さらに進めなければいけないということですね。

小沢 そうです。ところが、みんな最初から無理だという前提に立っているわけです。民主党の時も、政治主導と語っていながら、ああ何か無理だと思っているな、と感じたことがありました。

――みんなが無理だと思っていることを小沢さんは現実のものにしてしまう。最初に無理だと思う人と、現実化してしまう小沢さんご自身と何がどう違うのでしょうか。

小沢 やっぱり、最初に無理だと思ってしまう人は、自分のビジョンとか志とか理念とか、そういう言葉で表わされるような強いものを持っていないということだと思う。政治の世界で何か改革しようとすれば、旧体制の中から反発が出てくるのは当たり前なんです。大方の人は、それが自分に向かってくるのがいやなんですね。責任回避なんです。みんなにいい顔していたいから、自分を矢面に立たせることを絶対にしないわけです。だけど、それでは何も前進しない。

――自分が傷つくのが怖いんでしょうね。

小沢 だろうね。今でもみんなそうじゃないか。自分のことばかりだよ。しかも目先の利害だけだ。もうちょっと大きい天下国家の視点から考えればいいんです。

――なるほど。しかし、小沢さんがそうおっしゃった時に、後藤田さんと伊東さんはかなり戸惑ったような感じでしたか。

小沢 そう見えたね。そんなこと考えてもいなかったようだ。

――しかし、小選挙区制そのものは日本の政治史を動かしました。これからも動かしていく可能性を秘めているように思いますね。

小沢 そう思うよ。うん、そう思います。だから、いつも、インタビューで、小選挙区の功罪を言ってくださいと聞かれれば、ぼくは決まって「罪なんかない。功だけだ」って答えています。

――今の自民党政権も国民自身が自分たちで選んだものではありますからね。

小沢 民主党から自民党に政権が還ったのも仕方ないんです。民主党がだめだったからで、野党がまたしっかりすれば自民党に代わっていけるんです。その切磋琢磨とお互いに競争することがいいんです。

湾岸戦争への対応

 1990年8月2日、サダム・フセイン率いるイラクがクウェートを侵攻、国際連合が多国籍軍の派遣を決定し、翌91年1月17日にイラクを空爆して湾岸戦争が始まった。私は90年9月と91年1月の計2か月、当時所属していた「AERA」から中東に派遣され、イラクからのミサイル襲来下にあったイスラエルをはじめ混乱の中東を取材していた。インド洋を隔てて地球をぐるりと回った東京では、国連派遣の多国籍軍への貢献方法をめぐって自民党幹事長の小沢が苦心していた。多国籍軍の中心、米国は日本に対し戦費の拠出と共同行動を求めていたが、急遽作った国連平和協力法案は廃案となり、合計130億ドルの資金協力だけが実現した。戦後、ワシントン・ポストに掲載されたクウェート政府の感謝広告には日本の名前は載っていなかった。

――小沢さんが幹事長時代、湾岸戦争が起こりました。国連が派遣した多国籍軍にどうやって貢献するか、難しい対応が求められましたが。

小沢 いや、話自体はそんな難しいものではない。国連の常備軍はないことは事実なんだから、希望者を募る以外はないんです。それが多国籍軍です。多国籍軍にもいろいろあって、国連が準国連軍的な性格を与えたものは、現時点では国連軍として認める以外にないと私は考えます。理想だけ言っても仕方ないですから。

 湾岸戦争の時は、イラクに即時無条件撤退を求める安保理決議が採択されたわけだから、この多国籍軍は国連の平和活動だと見なすべきだというのが私の論理です。とすれば、日本は国連加盟の際の日本の宣言通り、あらゆる手段を持って協力しなければならない。これが憲法前文にある国際主義の精神でもあるわけです。しかし、当時だめでしたね。みんな怖がっていました。

――なるほど。そうでしたね。

湾岸戦争への対応策が最大の焦点になった第120通常国会。1991年1月28日から衆議院本会議で海部俊樹首相の施政方針演説に対する各党の代表質問が始まる前に政府・自民党首脳会議に臨む海部首相(左)と小沢一郎自民党幹事長

小沢 あの時は、いつも日米、日米と言っていた外務省と防衛庁がそろって反対していた。私のところに「絶対反対です」と言ってきた。それで私は「国連派遣の多国籍軍なのに何で参加できないんだ。アメリカは、何も実戦をしなくていい、まさにShow the flagだけでいい、旗だけでもいいから立てろと言われているのに、何で何もできないんだ」と言ってやりました。

――なるほど。

小沢 とにかく大変だった。それでぼくは、とにかく難民輸送だけはやろうと言って、輸送機を派遣するところまでちゃんと計画していたんです。各国の了解を取り付けて、エジプトの空軍基地を借りることまで全部了承を得て、シリアから難民を運ぼうと、そこまで全部セットしたんです。しかし、これもだめでした。

 急遽、最初に出した国連平和協力法案は外務省の官僚がまともに答弁できずにアウトになってしまいました。今のPKO協力法は確かにおかしなところもあるが、何もないよりもいいだろうという話で作ったものです。

――考え方を整理しますと、国連派遣のPKOという事態が生じた場合にはまさに憲法の精神である国際平和の考え方で国連の要請があれば自衛隊を派遣する。一方、安倍首相が考えていることは、米国がかかわる戦争ならば参加できるということでしょうか。

小沢 安倍首相がやろうとしていることは、直接日本と関係のない他国の国際紛争へもアメリカと一緒に行って戦闘できるという話ですから。それは憲法9条を改正しない限りできないんです。だから、私はもちろん反対ですが、安倍さんが海外派兵をやりたいなら憲法9条改正案を出してはっきりそう言えばいいんです。

都知事選敗北で幹事長辞任

 湾岸戦争終結後にあった1991年4月の東京都知事選挙は、4期目の多選批判にさらされた現職の鈴木俊一を自民党東京都連が支持、一方、自民党幹事長の小沢を中心とする党本部は公明党と民社党と組んでNHK報道局長だった磯村尚徳を推すという保守分裂選挙となった。結果は鈴木の圧勝となったが、鈴木を降ろして磯村を立てるという小沢の政治手法に保守層から批判が起こった。この統一地方選では、東京以外の選挙で自民党の勝利が大勢を占めたため小沢の責任を問う声は党内では聞かれなかったが、小沢は分裂選挙に公明党などを巻き込んだことを理由に幹事長職を自ら辞任した。しかし、この辞任がかえって公明党、民社党からの信頼を深めることにつながり、翌年のPKO協力法成立、さらに1993年の非自民連立政権成立の地盤形成へとつながっていく。

――湾岸戦争の後の東京都知事選で、小沢さんが中心となって自公民路線ができてきました。この時、NHKの磯村さんと鈴木さんが激突したわけですが、外から見るとちょっと複雑な構図でしたね。

小沢 複雑な話ではない。本当はごくごく簡単な話なんだよ。磯村さんは公明党の推薦だから、PKO法案を通すために仕方なかったんです。それを東京都連の人たちが理解していなかった。あの選挙はいろいろとあって、鈴木さん自身がやめるってぼくに言ったんだ。それを後になって変えて、本当に苦労しました。

――最初に鈴木さん自身がやめると言ったのですか。

小沢 最初、鈴木さんは自民、公明、民社の3党の推薦がなければやめます、と私のところに言いに来ました。そうしたら、公明党も民社党も鈴木さんを推さないと言うから、それではやらないですねと鈴木さんに聞いたら、今度はやりますって後で言ってきたんだ。要するに、公明党は鈴木さんを支持しないと言ってきて磯村さんを挙げてきたわけだ。民社党もある意味、それに乗っかった形だったけど、そうなってから鈴木さんが今度は「いやいや、やっぱり出ます」と言ってきたんだ。あれはメチャクチャだと思ったね。

――(笑)そうですか。それは困りましたね。

東京都知事選で自民党推薦の磯村尚徳氏が大差で敗れた責任を取って幹事長辞任の弁を読み上げる小沢一郎氏=1991年4月8日、東京・永田町の自民党本部

小沢 本当にどうして世の中、こんなに筋道の通らないことがまかり通るのかと思った。ぼくの感覚で言うと不思議で仕方なかった。日本人は、自分の言動に責任を負わないところがあるね。
――そうですか。しかし、走り出した車はもうどうしようもなくて、磯村さんですでに走っている。それに鈴木さんももう一度勝手に走り出したっていうことで、最後はああいう激突の形になったわけですね。

小沢 もう仕方がない。

金丸信からの総裁選出馬要請を蹴る

 竹下内閣がリクルート事件で瓦解した後、宇野宗佑が首相となったが女性スキャンダルで失脚。リクルート事件で安倍晋太郎や宮沢喜一、渡辺美智雄らの総裁候補が傷ついたことにより、候補者選びは混とんとしてしまった。その中で各派の事務総長が集まり、年次が高く、無難な人物として、各派の総意として海部俊樹を首相に据えた。しかし、実際の政局運営は幹事長の小沢が握り、目玉政策である政治改革関連法案が廃案となった結果、辞任に追い込まれた。辞任する直前「衆院解散」を強く示唆する発言をしたが、小沢らの賛意を得られずそのまま辞めることになった。海部が辞めた後の首相の座をめぐって、宮沢喜一、三塚博、渡辺美智雄の3人が名乗りを挙げるが、その前に、「キングメーカー」の異名を取っていた金丸信が小沢を指名、懸命な口説き落としにかかった。

 ――海部さんが辞任した後、次の自民党総裁、つまり首相を誰にするかということで、金丸さんが小沢さんを指名、説得にかかりますよね。

小沢 そうですね。いやあ、あの時は怒られた。

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