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フランス人に愛された政治の怪物・シラク元大統領

フランス魂を具現した右派本命の政治家。印象に残る左派的な政策

山口 昌子 在仏ジャーナリスト

来日した際、相撲観戦に訪れたシラク・仏大統領。右は故・北の湖理事長=2005年3月26日、大阪府立体育会館

 フランスの第5共和制第5代大統領ジャック・シラクが死んだ。遺族が9月26日、明らかにした。享年86歳。

 フランス語には、malgré tout(マルグレ・トゥ)という表現がある。「にもかかわらず」「種々の批判や反対する点があるけれども」「結局は」などと訳せるが、ジャック・シラクはまさに「マルグレ・トゥ」、「サンパ(親しみやすい)で、第5共和政の大統領として、国民に最も愛された大統領だった」といえる。

英語が不得意、大食漢、女友だちの長いリスト……

シラク元大統領を悼む記帳を長い列=2019年9月26日、パリ(筆者撮影)
 9月26日夜、小雨がぱらつく中、故人ゆかりの場所、パリ5区の自宅やエリゼ宮(大統領府)、そしてパリ市庁舎には、訃報(ふほう)を聞いて駆けつけた老若男女による記帳を待つ長蛇の列ができたが、なかでも目立ったのがジーンズ姿の若者の姿だった。

 マクロン大統領は同夜、ラジオやテレビを通しておこなった演説で、「我々フランス人は、我々が愛したように、我々を愛してくれた国家元首を失った」「シラク大統領はフランスのある種の想念を具現していた」「偉大なフランス人だった」と哀惜の念を述べたが、確かに、シラクはドゴール大統領が述べた「フランスに関するある種の想念」という、フランス魂を具現していたと言える。

 英語が得意でない。グルメ(美食家)というよりグルマン(大食漢)。そして女友達の長いリスト。彼は良くも悪くも、骨の髄までフランス人であった。

 彼はまた、この約半世紀、晩年の10年余を除けば、ずっとフランスの政治の表舞台に立ち続けた、政治なしには生きていけない“政治の怪物”でもあった。2期12年の大統領職に加え、首相2回(1974~76年、86~88年)、パリ市長を18年間(1977~95年)も務めた政治的キャリアは、民主主義国家では他に例がないだろう。

印象に残る左派的政策

シラク元大統領の訃報を伝えるフランスの新聞各紙(筆者撮影)
 ドゴール主義を継承する右派本命の政治家とされたシラクだが、奇妙なことに、いま振り返ると、強く思い出されるのは左派的政策だ。それは、ドゴール将軍が社会保障制度の確立や女性の参政権承認、アルジェリアの独立承認という左派的政治を施行したのと軌を一にする。そして、それこそが孫のような若者がシラクにある種の「カッコ良さ」を感じるゆえんかもしれない。「ハートは左、財布は右」という点でも、フランス人そのものだった。

 3度目の挑戦だった1995年の大統領選でシラクが掲げたスローガンは、左派のそれとみまがう「社会格差の解消」だった。当時はまだ無名(日本での昨今の流行作家ぶりが信じられないが)だった社会統計学者エマニュエル・トッドが、シンクタンク「サン・シモン協会」(99年に解散)の「白書」ならぬ「緑書」に発表した論文「社会的格差=フラクチュール・ソシャル」から借用したもので、10%前後の高失業率や治安悪化、社会モラルの失墜に覆われたフランスの再生を、このスローガンに集約して公約にした。

 この選挙で当選した直後、核実験再開を表明して、日本などから猛烈な批判を浴びたシラク大統領だったが、フランス国内では、「核抑止力」は社会党をはじめ、左派からも有効な国防の要として支持されていた。現在も「核抑止力」への反対はごく少数だ。

 大統領1期目(95~2002年)の内政面の「最大の功績」として、哲学者アンドレ・グリュックスマンが生前、繰り返し指摘したのは、核実験から約1カ月後の7月16日に「1942年7月16日の一斉検挙の日」を「国の記念日」に制定したこと。ナチ占領下で起きたユダヤ系住民の一斉検挙(約1万3千人がアウシュビッツなどの強制収容所に送られ、生還者は約400人)は、実はナチ・ゲシュポタではなくフランス当局によるものだったが、レジスタンス(対独抵抗運動)を主導したドゴール将軍は戦後、レジスタンスと対独協力者(コラボ)の対立で国が二分化されることを恐れ、占領下の4年間は「無効」と宣言。一斉検挙に関するフランス共和国の責任追及も退けた。

 歴代大統領もこの立場を保持。社会党出身のミッテラン大統領も、記念日制定を模索したものの、ドゴール派の反発を恐れて決断しなかった。シラクが決断できたのは、ドゴール派の正統後継者という立場であるがゆえに、ドゴール派からの反発を抑えられたうえ、戦後約半世紀を経たという時宜に恵まれたからだが、くわえて「サンパ(親しみ易い)」という言葉に代表される、大衆的で寛容な人間性にもよる。この「記念日制定」は極右を除き、党派を超えて国民全体に支持されている。

大衆的なサッカーに魅せられて……

 1998年のサッカーのW杯では、開催国にして優勝国という幸運にも恵まれた。フランスは前回のW杯では予選も通過できず、優勝など夢の夢だったが、ジダン選手らの大活躍で、決勝戦で強豪ブラジルを破って初の栄冠に輝いた。

 しかも、アルジェリア系移民2世のジダンをはじめ、代表選手の半数近くが移民2世だったことから、フランス共和国のスローガンである「自由、平等、博愛」の具現する例とされ、フランスの「同化政策」の成功例にも挙げられた。シラクは「フランスに生まれた者は全員、フランス人だ」と再三、指摘し、共和国フランスの真髄、生地主義の国籍法の利点を喧伝した。

 実を言うと、シラクはフランスの支配階級、エリート階級として、それまで「サッカーのサの字も知らない」、ラグビー・ファンだった。ところがこの大衆的スポーツ、ボールが一個あれば誰でも楽しめる、極めて大衆的なスポーツにたちまち魅せられた(これは裸一貫の相撲にも通じる大衆性だが)。

 優勝から2日後の7月14日の革命記念日に、監督をはじめ代表選手全員をエリゼ宮(仏大統領府)に招待し、全員にフランスの最高勲章レジオン・ドヌール勲章を贈った。このあたりが、「政治感覚抜群」「政治の怪物」と言われるゆえんでもある。

「空前絶後に良好」だった日仏関係

会談前に小泉首相と握手するシラク仏大統領(右)=2005年3月27日、東京都港区の飯倉公館

 日仏関係についていうと、シラク大統領の時代は「空前絶後の良好な関係」(松浦晃一郎元駐日大使)といわれる。

 パリ市長、首相、そして大統領(国家元首)としての訪日は50回に及ぶ知日派。日本の国連常任安保理入りを支持し、日本及びアジアの歴史や文化、美術に対する造詣も深い。パリ市長だった1986年には、パリと東京が姉妹都市であることから、大相撲の「パリ公演」を実現した。これがきっかけで、シラクは大相撲の大ファンになり、95年10月には、核実験で日仏関係が悪化する中、大統領権限で2度目の大相撲公演を実施し、日仏関係の改善をもたらした。

 シラク政権時代には優勝力士に贈られる「フランス共和国杯」も創設された。「勝敗だけでなく、相撲四十八手のどの手で勝利したかまで報告することが、駐日大使時代の重要な役目でした」と苦笑するのは、グールドモンターニュ元駐日仏大使(シラクの外交顧問、現外務省事務局長)だ。シラクの相撲好きが本物だった証左だ。

 核実験再開発表直後のハリファックス・サミットに出席した当時の村山富市首相、河野洋平外相、橋本龍太郎通産相は、サミット後、核実験抗議のためにパリに立ち寄ったが、この時、エリゼ宮の昼食会会場には、ギメ国立東洋美術館から貸し出された埴輪(はにわ)や江戸時代の屏風(びょうぶ)などが並べられた。

日仏首脳会談で合意文書に署名、退席するシラク・フランス大統領と橋本龍太郎首相=1996年11月18日、東京・迎賓館
 シラクが滔々(とうとう)と日本文化への蘊蓄(うんちく)を傾けたため、日本人の3人は抗議をするどころか、下を向くばかりだったという。辛うじて、芭蕉の没後300年の話題で橋本が相づちを打てたので、シラクは以後、「橋本ファン」になったというエピソードもある。首相退任後の橋本を夫人共々、フランスに招待したり、橋本の死去に当たり、心のこもった談話を発表したりした。

 日本側がすっかり忘れていた日仏修好通所条約150周年の言い出しっぺもシラクだ。また、パリで東大寺・興福寺展が開催された時、案内役の日本学・仏教学の碩学(せきがく)でコレージュ・ド・フランスのジャン=ノエル・ロベール教授が年号を間違えた時、即刻訂正し、かの碩学を恐縮させたなど、日本文化に関する知識の深さを証明する逸話には事欠かない。

「男性誌の下に詩集や文学書を隠している」

 エリゼ宮で広報を担った次女クロードは、父親の実像について、ジャーナリストでシラク首相時代(1974~76年)に女性地位相、文化相を歴任した故フランソワーズ・ジルーの次の言葉を引用し、最も適切なシラク評だと評している。

 「詩集や文学書の下に男性娯楽誌『プレイボーイ』を隠している男がいるが、シラクはその反対に男性誌の下に詩集や文学書を隠している」

 シラクの隠された文化・教養の高さを言い得て妙だ。

「永遠の同盟国」米国のイラン戦争に反対

ありし日のシラク仏大統領=2003年2月21日、パリ・エリゼ宮
 再選を狙った2002年の大統領選(直接投票、2回投票)は、「社会格差解消」の公約を果たせなかったシラクの苦戦が予測されていたが、フランス大統領選史上最高の得票率82.21%を獲得して圧勝した。

 1回目投票で最有力だった社会党公認候補のジョスパン首相(当時)が、高失業率や移民問題を含む治安悪化を背景に、極右政党・国民戦線(FN、国民連合=RNの前身)のジャンマリ・ルペン党首(当時)に破れるという大番狂わせの結果、決戦投票ではルペンが相手になったからだ。「大統領選でまさか、シラクに投票するとは夢にも思わなかった」と左派支持者のトッドが告白したように、人種差別を堂々と標榜するルペンに対し、「フランス共和国」の旗の下、社会党はもとより共産党から緑の党、極左まで左派支持の票がシラクに流れた。

 2期目の左派的政策としては、2003年のイラク戦争反対がある。

 米仏は一度も交戦したことのない「永遠の同盟国」だ。シラクは01年9月11日の米国の多発同時テロの時は、主要国の国家元首として真っ先にニューヨーク入りし、ブッシュ米大統領の対テロ戦争を支持している。

 ミッテラン社会党大統領は湾岸戦争参戦に際し、クウェート侵攻というイラクの明確な国際法違反や「武力行使容認」の国連決議があることを理由に挙げたほか、「国連常任理事国としての責務」と「フランスの国際的地位堅持」という右派的理由も挙げた。

 イラク戦に際し、シラクは米国の「イラクに大量破壊兵器」があるとの開戦理由に疑問を呈し、国連常任理事国として拒否権をちらつかせた。結局、米国は国連決議なしで武力行使を決定し、日本や東欧諸国などが加わった。戦後、イラクに「大量破壊兵器」は存在しなかったことが判明、フランスが正しかったことが証明された。後世から見て、「あの戦争が正しかった」とされるには、「国連決議」という錦の御旗、お墨付きが必要だとする点でも、歴史を尊重する代表的なフランス人だった。ミッテランが湾岸戦争への参戦を決めたのは、この錦の御旗があったからだ。

最大の失点はカラ雇用事件での有罪判決

 もちろん、シラクには失敗や批判されるべき点も多々ある。たとえば1974年の大統領選でドゴール派の候補者シャバンデルマスを裏切り、中道右派・フランス民主同盟(UDF)のジスカールデスタンを支持した。その功労でジスカールデスタン大統領の下で首相に就任したが、2年後にはジスカールデスタンとも袂(たもと)を分かった。この「裏切り」はブーメランとなって、1995年の大統領選では、“30年来の友”のバラデュールに裏切られることになる。

 2005年には、欧州憲法批准の是非を問う国民投票で批准が否決された。フランスが欧州統合への足を引っ張ることとなり、欧州連合(EU)内でのフランスの地位が失墜した。

 最大の失点は、

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