野球人、アフリカをゆく(13)1千万円をかけた本格的野球場が紆余曲折の末に完成
2019年10月05日
<これまでのあらすじ>
アフリカの危険地・南スーダンに赴任した筆者は、ガーナ、タンザニアでの野球の普及活動の経験をいかし、3カ国目の任地でも首都ジュバ市内に安全な場所を確保して野球教室を始めた。初めて野球を目にした子供たちとの信頼関係も徐々にできてゆく。ようやく試合ができるレベルになってくると、試合前に整列して「礼」をする日本の高校野球の形を導入していった。こうした野球哲学が形成されたのはタンザニアだった。おりしも、毎年行われるタンザニア全国野球大会が開催されるため、現地入りをすると……。
「長旅おつかれさん!」
早朝、ダルエスサラームに到着し、タンザニア野球連盟事務局長との打ち合わせを皮切りに、終日市内あちこちを動きまわってからホテルに戻ると、ちょうど5階のフロントに、二人の日本人がチェックインをしていた。「アフリカ野球友の会」のメンバーである彼らは、日本から移動に17時間かけてやってきたところだ。
「あ、友成さん、お疲れ様です」とやや疲れた表情で答えたのは近藤玄隆。足元には大きな黒いカバンが置いてあり、折り畳まれた三脚らしきものが覗いて見える。もう一人の若い青年は、元気よく「お疲れ様です!」とハリのある声で答える。
「機材、無事だった?」とすぐに気になっていたことを尋ねると「はい、何事もなく普通に入国できました」と答える近藤。
「それはよかった!じゃあ、チェックインが終わって落ち着いたらレストランに集合して打ち合わせをやろう」
今回、第6回を迎える「タンザニア甲子園大会」。年々規模が大きくなるに従い、かかる予算も大きくなってくる。ここで過去の経緯を振り返ってみる。
2014年2月に開催した第一回大会は、できたばかりのタンザニア野球連盟が主催者だが、開催資金は在留邦人にお声がけをし、募金を集めて開催した。同年12月の第2回大会は、アフリカ野球友の会が大会開催の事業支援団体として、助成金を獲得して開催。私がタンザニアを離任した後の2015年12月第3回大会、2016年12月の第4回大会は、当初と比較し、参加チーム数、人数規模共に倍増し、その分宿泊代や食費も倍増。100万円以上の資金を集めなければならなくなった。
タンザニア野球連盟は、国内で民間企業から寄付を募る努力をするが、サッカー以外のマイナースポーツへの支援は微々たるものしか集まらない。だが、それは想定内。急速に発展するタンザニア野球のニーズに対応するためには、日本国内で資金調達するしか選択肢がない。アフリカ野球友の会の名前で寄付を募り、多くの方の支援を受けた結果、何とか開催するだけの資金を得ることができた。
2017年の第5回大会からは、前大会も支援してくださった大阪北ロータリークラブが、タンザニア甲子園大会を3か年計画で支援することを約束してくださった。第6回大会は、支援の2年目にあたる。
ほどなくして我々3人は、ホテル内のさほど広くなく窓もないレストランに集まった。そして飲み物をオーダーするや否や、近藤が訊いてきた。
「午前中、ンチンビさんと打ち合わせした後、さっそく見てきたよ。バックネット、観客席、ベンチ、フェンス、グラウンド、そしてマウンド。アフリカでこれだけできれば十分じゃないかな」というと、近藤は「では、予定通り、明日は野球場の開会式ができそうなんですね」とほっとした様子で疲れた表情を和らげた。
年々発展していくタンザニア野球のために野球場を建設する計画が持ち上がったのは、2015年だった。在タンザニア日本大使館の尽力により、「草の根文化無償資金協力」の供与で約1000万円をかけ本格的な野球場を建設することが決まった。
場所は、ダルエスサラーム市内最大の校庭面積を有する「アザニアセカンダリースクール」。市内で2つ目の野球クラブが設立されたところだが、約1600人もの子供が通う市内最大の生徒数を誇る巨大な学校でもあり、今は野球が最も盛んな学校と言っていい。公立校だが、寮もあるため、生徒たちが自主的に朝6時から朝練を行うなど、多くの野球小僧を輩出していることもあり、関係者の合意を得るまではスムーズだったが、行政手続きは何事も時間がかかるのがアフリカだ。
「開所式は大物が集まるらしいよ。タンザニア史上初の本格的野球場だから、資金を提供したタンザニア大使館からは日本大使が招かれるのは当然として、タンザニアスポーツ省からは大臣が来るらしい。まあ、ここまでは想定の範囲内だったけど、まさか首相まで来るとはね」
朝方のタンザニア野球連盟での打ち合わせ、ンチンビ事務局長がナーバスになっていた様子も報告すると、近藤はさもありなんとうなずきながら、「メディアもいっぱい来るんでしょうね。なんか感慨深いですね」と言って、手元にあったジュースをグイっと飲んだ。
「近藤さんは、タンザニア甲子園大会に毎年来ているからね。タンザニア野球の発展を記録に残してくれて、ほんとにありがたいよ」
「タンザニア野球はまさにゼロから始まりましたからね。なにもなかったところから、球場ができてしまうまで大きくなっていくものなんだ、と素直に驚いてます」
映像を撮るときは真剣過ぎて笑顔がなくなり、時に熱中症で倒れるまで集中する近藤も、普段は穏やかな性格が表情にでて、にこやかになる。
「それにしても、近藤さんも野球が好きだよね。今年もイチローの試合を観にアメリカまでいってたでしょ?」
野球に対しての情熱は、私に負けず劣らずの近藤は、少し照れ笑いをしながら返す。
「野球に目覚めすぎました。野球がないと、自分は生きていけないですね」
近藤は高校時代、硬式野球部に所属し外野手だったが、怪我をして練習の中ですらチームに貢献できず、疎外感を味わった。その挫折を引きずって、高校卒業後はしばらく野球から離れていたらしい。しかし、イチローや松井など日本人メジャーリーガーが世界を舞台に活躍している姿に刺激を受け、再び野球に夢中になったという。
「僕は『アフリカ野球友の会』に救われたんですよね」
「アフリカ野球にかかわるようになってから、アフリカのドキュメンタリー番組や映画を観るようになったり、アフリカに関する新聞記事を注意して読むようになったりして、自分の世界が広がったんですよね。
アフリカというと、内戦、飢餓、エイズ、といったネガティブなイメージが強いですが、野球のおかげで、ちょっと臆病な僕ですが、アフリカに対して緩やかに入っていけたと思います」
クリエーターだけに、独特な表現で語る近藤。「なによりも」と続ける。
「他の人には撮れない映像を撮れる充実感、ですかね。『アフリカ野球友の会』に入ったおかげで、映像を作りながら、アフリカ野球の魅力に引き込まれました。そして、僕を本来の野球好きに戻してくれたんですよね」
普段は物静かな近藤が珍しく饒舌に語った。そうか、だから彼は本来の仕事が忙しい中、無理して日程調整し、ボランティアで毎年アフリカに足を運ぶのか。趣味の域をはるかに超えた「アフリカと野球」にこだわりを持つ稀有(けう)な映像マンの彼は、間違いなく「野球人」だ。
二人の会話を、目を見開いて聴き入っていた若者は、「アフリカ野球友の会」に入ったばかりの大学生、高橋海輝(みつき)、19歳。成田空港から近藤に同行してやってきた。彼自身が強く希望して参加したこの旅は、もちろん初めてのアフリカ体験となる。
「海輝くん、せっかくの機会だから、いろいろ経験してほしいと思っているんだけど、特に近藤さんの撮影サポートは、よろしく頼むね」と水を向けると、「はい!新米ADになりきって頑張ります!」と元気よく返した。
ンチンビ事務局長はすでにグラウンドにいて、テキパキと業者に指示を与えている。
「ンチンビさん、おはよう!準備はどう?」と声をかけると、ちょっと得意げな顔で「球場内が雑然としていた昨日とは見違えるようでしょう? ダメそうでも、ぎりぎりでなんとかしちゃう。これがアフリカです」と言いながら、ガハハハと豪快に笑う。
ちなみに、アフリカでこうしたイベントを予定通り開催するのは極めて困難だ。なぜなら、日本では考えられないようなことが多く起こるからだ。
電気が来なくてアンプが使えない、準備したジェネレーターのディーゼル燃料が品不足で購入できず発電できない、道路が陥没して物資が運ばれてこない、配置された警備員が「犬にかまれた」のでこない、業者が直したはずの箇所がまたすぐ壊れる、メディアが払われる交通費が少ないとそっぽを向いてやってこない…などなど。私もアフリカ経験の中でどれだけ苦い目に遭ってきたことか。
ちなみに、アフリカでは、「困難」や「課題」のことを「チャレンジ」という。
ンチンビは、こうしたアフリカあるある的なチャレンジを順調にさばいているようだ。これは日本人はおろか、生粋のアフリカンでも、なかなかできることではない。ンチンビは、実務能力が相当高いのだ。
今回の工事では球場に隣接して管理棟も建設され、連盟事務局の部屋もある。そこに案内され、面識のある近藤と初めて来た高橋をンチンビ事務局長に紹介したあと、今日のスケジュール確認を行った。
「開所式は9時からだよね?首相はほんとにくるのかなあ?またドタキャンとかされるんじゃないの?」と少し茶化しながら言うと、ンチンビの顔からは笑顔が消え「すでにSPが来ていますから、必ず来ます」という。
「首相の座る位置、メディアの位置、国歌斉唱の際のCD、観客席など、ひとつひとつ指示が細かくきて、有無を言わさないんです」
「えっ?国歌斉唱は昨年に引き続き若者に人気の歌手がきて歌う予定なんでしょ?」
「それがダメだというんです。首相が来るからには規定通りやれ、と」
「歌手の人だってもう会場に来ているのに、そんな横暴な!」
「ミスター・トモナリ。申し訳ないが、相手が相手だ。従うしかないんです。指示通りにやって、成功させなければ、私の首が飛ぶんです」
悲壮感さえ漂わせるンチンビにいつもの笑顔は一切なかった。相当ナーバスになっているようだ。
「わかった。じゃあ、スポンサーの大阪北ロータリークラブのみなさんや日本側関係者の誘導など、我々でやれることはするから。頑張っていこう」。そう声をかけて、打ち合わせは終わった。
球場開所式はこれまでの開会式同様、てっきり球場でやるものと思っていたが、大きなテントが外野のフェンスの向こうにいくつか設営されていた。何百ものパイプ椅子が運び込まれて並べられており、スタンドマイクや飾りつけなどがすでに出来上がっている。そして、球場のフェンス沿いに関係者席から順に設置された、球場建設祈念石碑に向けて赤いじゅうたんが通路代わりに敷かれていた。
開所式の時間が近づき、ほぼ準備が整った。在タンザニア特命全権大使やスポーツ大臣、大阪北ロータリークラブの幹部のみなさんが着席して待っていると、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
「ミスター・トモナリ。あれは首相一行の隊列を先導するバイクのサイレンの音です。始まりますよ!」とンチンビは言い残してどこやらに姿を消した。
待機していたSPらしき人物が後部ドアの前に立ち、あたりを警戒するように鋭い視線で見渡し、タイミングを見計らって、SPがドアを開けると、タンザニアの国旗色である緑、黄色、黒、青の4色をあしらったジャージを着た首相が出てきた。マジャリワ首相は、とてもにこやかな表情で、さっそく目の前のひとたちと握手をしてひと言ふた言交わしながら進んでいく。さすが次期大統領候補と言われているだけあって、大物然とした立ち居振る舞いだ。
いつの間にか、一般人向けの客席にも多くの人が座っており、会場はほぼ満席状態。メディアゾーンには、テレビカメラやカメラマンがつめかけており、その一角には近藤と高橋がいい位置を確保して待機している。高橋はデジカメ写真撮影担当だ。
「それではこれより首相を迎え、開所式を執り行います!」と聞き覚えのあるややだみ声のアナウンスが入った。どうやらンチンビがMCをやるらしい。
まずは全員起立して国歌斉唱を行ったあと、主催者・タンザニア野球連盟のマカタ会長の挨拶、日本大使の挨拶などが入り、私もタンザニアに野球を広めた貢献者として「アフリカ野球友の会」の代表として挨拶をさせてもらった。その他関係者からの挨拶があった後、最も大物である首相がマイクの前に立って挨拶を始めた。
そこから改めて球場に選手たちが入場して開会式が無事行われ、いよいよ球場開きの第一戦が始まろうとしていた。近藤や高橋が観客席にカメラを配置し、撮影準備を進める。私は、大阪北ロータリークラブの方々と初戦を一緒に観戦するため、観客席に陣取っていた。
すると、開所式のプレッシャーから解き放たれたかのように、ンチンビが元気よく観客席に現れ「ミスター・トモナリ!」と満面の笑顔で呼びかけ、開口一番「素晴らしいスピーチだった!」と言った。
私のスピーチの内容は、これまでタンザニア野球に支援、貢献してきた多くの方々に感謝を示しつつ、いかにタンザニア野球連盟のマカタ会長とンチンビ事務局長が頑張って、タンザニア野球を発展させてきたか、という話だった。その忖度(そんたく)ぶりをほめているのかと思い、「そうかな。ありがとう。それはそうと、素晴らしい開所式だったよ。ンチンビさん、グッドジョブだ!」と返すと、ガハハハと笑いながら首を振った。
「そうじゃない。首相のスピーチのことだ。首相がスピーチで素晴らしいことを言ってたんだよ!」
なんだ、私の渾身(こんしん)のスピーチが褒められてたんじゃないのか――。
ちょっとがっかりしながら、ンチンビが説明する首相のスピーチの要点を聴いた。それは、長年アフリカで野球の振興活動を続けてきた中で、かつてない興奮を覚えるに十分な内容だった。(つづく)
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