トリエンナーレへの補助金不交付に、映画『靖国 YASUKUNI』李監督は何を思う
2019年10月04日
相変わらずだな。まずそう思った。文化庁のことだ。
「表現の不自由展・その後」はおよそ2カ月ぶりの再開に向けて新たな局面を迎えたが、問題はなんら解決していない。大村秀章・愛知県知事が展示再開の意思表明をした翌日、文化庁は不自由展を含む「あいちトリエンナーレ2019」全体に対する補助金7800万円全額の交付を取り消した。
言うまでもなく、今回のトリエンナーレ実行委は被害者だ。
事前に警察と相談し、警備を手厚くしたり撮影を禁じたりすることで不自由展の開催は可能と判断していた。明らかに犯罪である脅迫や想定外のテロ予告に対して前もって予測し申告しなかったなどという理由をいまさら持ち出すのは、イチャモンとしか言いようがない。今回の「文化資源活用推進事業」の審査項目に、安全対策などない。
補助金適正化法を理由にした今回の不交付決定の無理筋ぶりは同じ論座の記事『あいちトリエンナーレ補助金不交付の支離滅裂』が詳細に論じており、もはや付け加えることはないが、行政の公平性からも大問題だ。
もし来年の五輪開催中にテロ予告があり会場が混乱して一部競技の開催が延期となったら、五輪がらみの補助金支出すべてを取り消すのだろうか。
展示内容が明らかになった8月の開幕後早々に、菅義偉官房長官は「事実関係を確認、精査して適切に対応したい」と表明していた。文化庁は「手続き上の不備」と繰り返し、萩生田光一文科相も「正しく運営ができるかどうか、きちんとした管理ができるかどうか、この一点」と強調するが、文化庁自ら「異例」と認めているとおり、だれがどう見ても恣意的な判断だろう。
昨今の政権の露骨な手口を思えば、「検閲」との批判を気にして表だって展示内容を理由にしなかっただけでも、逆に驚きだ。とはいえ、内容に直接言及しなくても、作品によって騒ぎが起きることを理由に支出を認めないのであれば、内容に踏み込んだに等しい。
今回の日本政府の判断が世界に送ったメッセージは「意に沿わない事業にはカネを出さない」に他ならない。文化事業を営む国内の団体や自治体への萎縮、自粛効果は大きいだろうし、この社会に、気に食わない作品の兵糧を絶つには組織的にクレームをつければいい、という悪しき回路を設けてしまった。
今回の判断の背後に官邸の意向や指示があったのかどうかは、いつまで経っても明らかにはならないだろう。またいつもの「忖度」というやつかもしれない。
こうした苦しい説明をせざるを得ない立場に追い込まれた文化庁の担当者には同情しなくもない。が、ネットで飛び交う「文化を殺す文化庁」「表現者を守らない文化庁」といった揶揄どおりの情けない姿は、11年前の取材体験をまざまざと思い起こさせた。「相変わらず」の意味は、以下による。
2008年3月12日、中国人監督李纓(リ・イン)が撮ったドキュメンタリー映画『靖国 YASUKUNI』を国会議員向けに上映するという異例の試写会が開かれた。
これは、今回の「トリエンナーレ」問題と同様、内容を反日的と聞いた一部の政治家が公的助成を問題視して試写を求めたことがきっかけだった。その後、右翼の抗議や嫌がらせ電話が上映予定館に相次ぎ、封切り館だった東京と大阪の5館がすべて上映を取りやめ大きな社会問題となったので、覚えている方も多いだろう。
日本新聞協会や日本ペンクラブなどが次々と表現の自由の危機を訴える声明を出すなか、自民党議員が作中の主要登場人物である刀匠に連絡を取り出演に承諾したのか確かめ、それに監督側が「明らかに検閲だ」と反発するなど、騒動は日に日に大きくなった。
この試写には実は文化庁が大きな役割を果たしている。やや微に入るが、当時の極めて不明朗な文化庁の動きを、あらためて振り返ってみる。
映画を観たいという稲田議員の要請を受け、文化庁は配給会社に「ある議員が内容を問題視している。事前に観られないか」と問い合わせた。配給会社はマスコミ向け試写会を案内したが、稲田議員側の都合がつかないとして、再度「試写会場を手配するのでDVDかフィルムを貸してほしい。費用はこちらで負担する」と持ちかけた。これが試写会1カ月前のことだ。配給会社は「特定の思想・立場の人たち限定の試写はおかしい。事実上の検閲だ」と難色を示し、両者の協議の末に、衆参の全議員に試写の案内を送ることが決まった。
文化庁はすぐに東京都内のホールを押さえたが、この件を知った私が担当の芸術文化課を取材し費用支出の名目などを問い合わせると、直後、配給会社に「試写会の経費負担をお願いすることでよろしいですね」と連絡した。配給会社側が「話が違う。こちらが望んだ試写会ではない」と憤ったのは当然だ。
私の確認取材に同課は「文化庁負担では予算の名目が立たない。全議員向けに趣旨が変わった時点で、配給会社側に支払ってもらうつもりだった。伝わっていなかったとしたら行き違い」と説明を二転三転させた。当初「こちらで負担します」と持ちかけたことについては「文化庁が払いますという意味ではなく、後で稲田先生側に請求する予定だった」とあくまで言い張った。
試写会当日、文化庁がそもそもは稲田議員らのために手配したホールでは、稲田議員グループの出席者をかいがいしく取りまとめる芸術文化課の職員らの姿があった。
もう少し続ける。
『靖国 YASUKUNI』には、文科省(文化庁)が所管する独立行政法人「日本芸術文化振興会」の基金から製作費750万円が助成されていた。
企画書などをもとに助成の可否を審査したのは、振興会が委嘱した映画評論家など7人による専門委員会。完成後の委員と振興会職員による確認試写でも問題なしと判断されていた。
しかし稲田議員らの試写要求後、文化庁は振興会を通じて李監督の事務所に対し再三にわたって撮影許可や著作権処理について詳細な報告を求め、申請書類一式を稲田議員事務所に提供した。
同じ年の映画製作では、周防正行監督の『それでもボクはやっていない』など応募96作品中22作品が助成を受けている。舞台芸術や地域文化振興活動などを含めれば毎年約700件の応募がある。
文化庁は「こうした依頼(試写の要請)を受けたことは過去にはない」と認めたが、膨大な過去の申請のなかから1作品を抜き出して再検証する作業については「特異な例ということはない。情報や指摘があれば、過去にさかのぼって確かめるのは普通のこと」と答えた。
結果的に助成取り消しとはならなかったが、当時の官邸の主が現在と同じだったとしたら……と想像せずにはいられない。
映画界では「議員に従わざるをえない担当職員の立場はわかるが、もう少し制作者をまもって」との慨嘆の声が満ちた。映画演劇労働組合連合会は文化庁に試写の「仲介」の経緯をただす質問書を送った。
一方、稲田議員は、文化庁に試写を求めた理由について「客観性が問題になっている作品。議員として観るのは、ひとつの国政調査権」と答えていた。「表現の自由や上映を制限する意図はまったくない」と繰り返しつつ、『靖国 YASUKUNI』は「助成にふさわしい客観性ある作品と言えるのか、議員として検証することはできる」と主張した。
憲法で衆参両院の権能と定められた国政調査権が議員個人にあるのかどうかは微妙な問題だが、それはともかく、この種の、文化助成に対する一部政治家や国民の「誤解」は、いまに至っても変わらない。
河村たかし・名古屋市長は今回の不自由展を「日本人の心を踏みにじるようなもの。市民の血税でやるのはいかん」と批判したが、こうした「公的施設を使い公金を受け取るなら、国民の感情を損ねる表現をすべきではない」という発想を支持する人は、「相変わらず」少なからずいる。「公権力が(表現の自由を)制限することができないというなら、公的資金をもらっちゃダメ」と発言した編集者までいたことには、さすがに驚いたが。
昨年のことだが、『万引き家族』でカンヌ国際映画祭パルムドールを受賞した是枝裕和監督が「公権力とは潔く距離を保つ」と発言したことに対し、ツイッター上で「補助金をもらっているのに呆れた発言だ」「矛盾している」と批判が巻き起こった。
文化助成は国からの“施し”ではない。
公権力は援助をするが芸術表現の自由と独立性は維持する、いわゆる「金は出すが口を出さない」原則は「アームズ・レングス」と呼ばれる。
自由民主主義国家が共通の価値とするこの原則の源流は、経済学者ケインズにある。多くの国民が芸術文化を享受するためには市場原理に任せず国家が一定の役割を果たすべきだと考えたケインズは、1946年、自ら主導してアーツカウンシルを設立した。根幹には、公的支援を行う際には行政から中立の第三者的専門家集団が支援先や配分を決めるシステムがある。
日本政府の文化助成も、同様に採否には政府が直接関わらない仕組みとなっている。通常事業としての映画製作や舞台芸術創造活動などへの支援は前述の日本芸術文化振興会に一元化されており、『靖国 YASUKUNI』の頃とは違って基金ではなく国からの直接の補助金が原資となったが、仕組みは変わっていない。
「商業的、政治的または宗教的な宣伝意図を有する活動」は応募できない(政治団体や宗教団体の普及活動を想定)が、客観性など内容・表現についての審査基準や欠格規定はなく、判断は評論家や学者など5~10人からなる専門委員会に任されている。中立性を期すため、助成が内定するまで委員名は非公表で、審査過程は事後も公表しない。
いまの制度が整った1990年度以降、他使途への流用が認定された数件以外で、一度決まった助成が取り消された例はないという。
今回の「あいちトリエンナーレ」も、外部有識者による審査で補助金採択が決まっていた。
そして、この審査委員会の委員を務めていた野田邦弘・鳥取大特命教授が10月2日、文化庁に辞意を伝えた。「一度審査委員を入れて採択を決めたものを、後から不交付とするのでは審査の意味がない」というのが理由という。「手続きの不備」という文化庁の説明を、野田教授は「理屈は後付けだと思う。そもそもやり方がありえない」とばっさり。さらに「外部の目を入れて審査し採択したあとに文化庁内部で不交付を決めるというやり方が、定着してしまわないか、危惧している」と語った。
ごもっともである。野田教授と文化庁のどちらが筋を通しているか、明らかだろう。
では、公的施設の使用という応用問題をどう考えるべきか。
一般的には、憲法が定める「表現の自由」は公権力に表現行為を妨げられない権利であり、国から助成や発表場所の提供を受ける権利を保障するものではないとされている。国や自治体が私人の芸術活動を支援したり撤回したりする場合は行政の裁量が広く認められると解されてきた。
だが、千葉県船橋市の図書館で2001年、司書が自分の思想信条に反する書籍を独断で廃棄した事件で、最高裁は2005年、「著作者の思想の自由、表現の自由が憲法により保障された基本的人権であることを考えると、著作物が閲覧に供されている著作者は、法的保護に値する人格的利益を持つ」との見解を示した。著者は図書館に本を置いてもらう権利はなくても、ひとたび閲覧の対象にした以上は公正に扱われるべきだとの判断だ。
今回の不自由展中止をめぐって愛知県が設置した検証委員会の中間報告も、知事の判断で展示を撤回できるかどうかについて「首長もキュレーションの自律、美術館の自律性の尊重が求められ、それに反して介入する場合には、表現の自由の原理からして問題がある」と指摘した。
中間報告はこの他にも諸々の論点を挙げて、政治家らの「誤解」を懇切丁寧に正しているが、個人的に最重要と思われるのは次の点だ。
「単に多くの人々にとって不快だということは、展示を否定する理由にはならない。芸術作品も含め、表現は、人々が目を背けたいと思うことにも切り込むことがあるのであり、それこそ表現の自由が重要な理由」
河村たかし市長は「日本人の心を踏みにじる」と不自由展を批判したが、誰の気にも障らない表現の自由なら中国にも北朝鮮にもある。パリのシャルリ・エブド事件の直後、国内では「あの風刺は行き過ぎ」「表現の自由は大事だが節度が必要」といった言説が広がった。テロリストの思うつぼとしか言いようがない。
再開が決まったのが救いとはいえ、不自由展中止問題は、まさにこの社会の「不自由」さを示した。山より大きな猪は出ない。表現の自由を窒息させているのは、政治家でも行政でもなく、国民だと言うしかない。
それにしても、以前に比べて病理は悪化しているのだろうか。
実に11年ぶりに、かつての渦中の人に再会した。
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