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1990年代「改革の政治」は日本をどう変えたか

平成政治を問い直す【3】橋本行革と「改革を競う野党」

大井赤亥 東京大学非常勤講師(政治学)

「官僚叩き」の時代

 「改革保守」とは強いリーダーシップによって行政機構の縮小再編成を目指した保守政治の自己刷新であり、その第二のピークは橋本政権による行政改革であった。1990年代初頭、「改革保守」の先鞭をつけたのは小沢一郎であったが、その後、「改革」は小沢の専売特許を離れて独り歩きし、1996年以降、橋本自民党がその「お株を奪う」ことになる。

 行政改革は「改革保守」の一貫した最重要アジェンダであり、その必然的帰結として、「改革の政治」の主敵は常に官僚や公務員に設定されてきた。

拡大村山政権の与党3党は、辞任表明した村山首相の後継として自民党の橋本総裁を首相候補に決定。新政権の政策合意書に署名する、右から橋本龍太郎・自民党総裁、村山富市・社会党委員長、武村正義・新党さきがけ代表=1996年1月8日、東京都千代田区の国会内

 国際的に見た場合、日本の公務員数は約339万人(2013年現在)で人口の3%を占めるにすぎず、日本は「市民を雇わない国家」(前田健太郎)という特徴を持っている。しかし同時に、かつての通産省による経済管理に見られるように、日本は官僚が強い権限を持って市民社会を統制する「開発主義国家」であるという印象も広く浸透してきた。それゆえ、官僚は常に「改革の政治」の敵役筆頭であり、1990年代は「官僚叩き」の時代であった。

 事実、1990年代はエリート官僚の不祥事が続出した時代でもあり、これが行政改革への機運を盛り上げた。1998年には銀行による大蔵省への過剰接待の実態が暴かれ、舞台となった「ノーパンしゃぶしゃぶ」は流行語ともなり、大蔵省解体の一因となった。厚生省認可の非加熱製剤によってHIV感染者を生みだした薬害エイズ事件もまた、「行政の無謬神話」を破壊し、川田龍平らの抗議活動や市民運動出身の菅直人厚生大臣らの活躍を受けて、リベラル派からの官僚批判を加速させる契機となった。

二つの行政改革論

 1990年代の行政改革は二つの出所から生じたものであった。第一に「改革保守」による行政改革であり、すなわち「開発主義国家」の解体であった。「開発主義国家」とは、政府が大企業の成長を促進しつつ、市場競争を抑制して中小企業をも保護育成していくシステムである。橋本自民党が試みたものはこのシステムの縮小再編成であり、具体的には中央省庁の許認可権と行政指導の削減に求められた。

 第二に、いわば市民派からの行政改革である。「開発主義国家」は、「天皇制国家の国家原理」を継承し、政官業の癒着による「独特の非民主主義的な社会構造」を作ってきた点で、長らく市民運動や住民運動の批判対象でもあった(注1)。たとえば、1990年代、長良川河口堰事業は市民派やリベラル派からの「開発主義国家」批判を象徴するものとなった。

 市民派からの「開発主義国家」批判を牽引した代表的論者は松下圭一であろう。1990年代、松下は、官庁の肥大化と族議員の跋扈が行政劣化をもたらしているとし、官僚を「公僕」に戻すためには、民主的に選出された国会による行政へのコントロール強化が必要だと力説している。松下によれば、このような「市民版行政改革」によって、「保守vs革新」という考え方からは見えなかった「官治vs民治」という政治構造が見えるようになるという。その意味で、「市民版行政改革」は「保革対立」に代わるポスト冷戦的な対立軸を市民派の側から提示するものであったといえよう。

(注1)後藤道夫『反「構造改革」』青木書店、2002年、153頁

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筆者

大井赤亥

大井赤亥(おおい・あかい) 東京大学非常勤講師(政治学)

1980年、東京都生まれ、広島市育ち。東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。博士(学術)。現在、東京大学の他、法政大学、成城大学、昭和女子大学、東京理科大学で講師を務める。著書に『ハロルド・ラスキの政治学』(東京大学出版会)、共著書に『戦後思想の再審判』(法律文化社)など。

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