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「香港は少なくともゴッサムシティよりはましだ」

映画「ジョーカー」に共鳴する香港市民の不安と興奮

富柏村 ブロガー

 映画〈ジョーカー〉は10月3日に世界同日公開されると大好評。週末までに第1週の興行収入が10月公開映画では過去最高の100億円を突破した。

 アクション作品で正義のヒーローに悪役は必要だが〈バットマン〉のジョーカーほど人気ある悪役は他にいない。ジョーカーは非情なのだが、何処か憎めないトリックスター的なキャラクターで、正義や権力を嘲笑うような道化師。映画作品では〈バットマン〉でのジャック=ニコルソンや〈ダークナイト〉でのヒース=レジャーが実に印象深いジョーカー像を名演したことも印象的で、ジョーカーをスーパー級の悪役(Supervillan)にした。

 今回の〈ジョーカー〉はバットマンも登場せず、1980年代らしいゴッサムシティを舞台にジョーカーの誕生を描いている。ニューヨークを彷彿させるゴッサムシティは貧富の格差が激しく、市の財政難で社会福祉予算削減、ストライキでゴミ収集も停滞で治安も悪い社会情勢。その大都会で精神を病みつつコメディのスターを夢見てピエロ業で糊口を凌ぎ、病弱の母の面倒を見る青年・アーサー(ホアキン・フェニックス)が、どうしてジョーカーとなってゆくのか。

正義も信頼も欠如した香港社会の現実

香港で公開されている映画「ジョーカー」のポスター
 この映画が香港でも、いや「今の香港だからこそ」異常なほどの好評を博している。

 10月3日に上映が始まり、6日までの4日間で1,362万香港ドル(約1.9億円)の興行収入を上げた。ご存知の通り香港は逃亡犯条例改正を発端とする反政府抗議活動が続いており、10月は1日が中国建国70年、4日にマスク禁止法施行決定で抗議活動が夜から再び激化。5日(土)には終日、MTR(地下鉄)の運行が全線で止まり6日(日)にも抗議者と警察の抗争が香港各地で相次いだ。そのような不便な状況で映画観賞である。


 香港では、台風警報発令で公共交通がストップし自宅待機措置となっても映画館は開いている。それが今回の都市機能不全では大型のショッピングセンターも多くが臨時休業を決め、その煽りで映画館もかなり閉鎖となる中での、この〈ジョーカー〉の大好評。週明けでショッピングセンターも再開した8日は香港全域で1日に581回も〈ジョーカー〉が上映されている。

 映画は娯楽、〈バットマン〉のようなアクション映画ならスリルとサスペンスを満喫だが香港で〈ジョーカー〉はワケが違う。奇しくも〈ジョーカー〉の公開が10月3日で、翌日の4日に香港政府は行政長官・林鄭月娥が緊急情況規則法例を用いてマスク禁止法発令を決め5日から施行された。まるで〈ジョーカー〉上映にタイミングを合わせたかのよう。この映画が香港社会に与える影響を憂慮してマスク禁止法を急ぎ発令したのでは?と映画ファンが冗談をいうほど。

 殺伐としたゴッサムシティ、激しい貧富格差、市政府は社会問題解決どころか治安悪化を緊急の治安条例で平定しようとし警察の取締りも厳しい。それが政府への抗議活動、その激化と警察の暴力的な取締りの続く香港に映るのだ。ゴッサム市政府の権力は資本家と癒着し低層の市民生活など見向きもしない。

 香港で政府は数年前まで財界寄りの政策が「政財癒着」と批判され、今では北京中央の意向に従属ではゴッサムシティと同じではないか。主人公のアーサーが大好きなテレビの人気バラエティ番組“Murray Franklin Show”も司会のフランクリン(ロバート・デ・ニーロ)は思いやりにあふれる善人のようで内面は冷徹でマスコミも自分たち弱者の味方ではない。香港でも、市民の声を代弁するどころか中央政府に忖度するのが大部分の大手メディア。

 香港市民が〈ジョーカー〉に共鳴してしまうのは、そのような社会環境ばかりではない。

 アーサーは幼いころに実親の虐待に遭い精神疾患を患うという半生で、それは市民の多くにとっては自分には経験のない特異な事例ではある。だが正義や信頼、協調といった社会的理念の欠如したリキッド・モダニティ(液状化する社会)の中で、不安やストレスはたまる一方で自己の自律神経がいつ異常を来すかもわからない。

映画の中のゴッサムシティそのままの混乱

 香港では逃亡犯条例改正反対で今年6月9日に100万人デモが起きてから100日以上が過ぎるなかで、条例こそ「撤回」されたが混乱は複雑化、暴力化するばかりで、この状況で毎日を過ごすなかで精神的にもかなりの負担がある。数ヶ月前まで普通の学生だった若者が抗議活動で暴力的な行為も厭わなくなる。市民同士が政府寄りか反政府かで口論となり路上で争論となる。精神的に不安定になりつつある自分をアーサーに投影できなくはない。

道路に火を放つデモ隊=2019年10月6日、香港

 アクション映画は「非現実」が前提で、だからこそ他所のこととして見ていて娯楽なのだが、香港の今にとって〈ジョーカー〉のゴッサムシティは現実を映画化したような錯覚に陥る。

 アーサーは最初から悪人なのではない。偶然のきっかけで自己防衛すべきところ殺人を犯し、それでもそれを「事故」として自己消化し日常生活を送ろうとした。だが社会と不信への他者が募り、ピエロの化粧をした/道化の仮面を被った自分がゴッサムの低層階級の人々から人望を得ていると自己認識したことで臆病な自分に武勇が生じる。

 警察に追われるアーサー、列車の中で同じマスクをした市民の混乱に紛れ込み、自分の分身のような「マスクたち」が警官を痛めつけ、その隙に逃げのび路上でのダンスも軽快に。こうした姿が香港の黒シャツ姿の武力抗議を続ける若者たちに映る。実際に彼らは警察の催涙弾など巧妙に避けたり逃げたあとに、警察を嘲るように踊ってみせたりする時がある。

 (肝心の映画の筋に関わることはここでは書かないが)私たちは、この映画はジョーカーの誕生で、権力は存続し続け社会問題は何も解決せず、ジョーカーが必要悪のように悪の権化となり社会正義のためにバットマンが現れることを知っている。

封鎖された地下鉄旺角駅
 それが「現実」であるならば映画を見ながら、香港が今かかえる社会問題も永遠に解決せず、混迷したまま社会不安の日々と生活が続くのか、と暗澹たる思いに陥る。2時間余の映画が終わり、映画館を出ると場所によってはゴッサムシティそのままの混乱がそこに現実としてあるのだ。地下鉄駅は壊され出口に放火され、運転見合わせで道路封鎖で警察の催涙弾。救われようもない。だが、それでも香港の市民にとっては、この映画にあまりにリアリティを感じるため「面白い」と評判になる。映画が終わったあとの観衆の連れとの会話はとても高揚、興奮している。さまざまな場面を記憶が薄れないうちに話したい、と。「香港は少なくともゴッサムシティほどひどくはないね」という声こそ香港市民の感じる小康か。

英雄の誕生を望まない香港の若者たち

 さて、香港で過激化する抗議活動でジョーカーはいるのか。すでに運動の初期から中国寄りの思考からは「背後に米国」「CIAの陰謀」だとかカラー革命(その具体的な実体は?)、反対に抗議者側からは暴力化は中国政府の仕業、中国公安の影、暴徒化も警察の自作自演といった双方からの非難が聞こえる。日本のマスコミでも「香港デモを指揮する“謎の組織X”が存在する?」というような記事もあるが「さまざまな抗議行動が慎重な検討と作戦立案の上で行われていることは間違いない」と言うまで。どれも何らかの形で「組織」の犯行とは言ってみせるが特定のジョーカーは特定できないようだ。

「映画館で〈ジョーカー〉を観て外に出てみたら、映画と同じ世界にまだ自分がいる」(香港でネットに出回ったイメージ)
 この映画では、ジョーカーは臆病な青年が不慮のまま大きな社会に巻き込まれ精神疾患による思い込みもあり自己の再生を果たした「誕生」だった。香港でも抗議活動で「勇武派」と呼ばれる過激路線の若者たちの中に判断と行動に優れリーダー性もあり人望も厚いX君がいるかもしれない。だがスマホのSNSで繋がるだけで運動を続ける彼らが、そうした英雄の誕生を望んでいるかどうか。

 ゴッサムシティではアーサー本人が自己認識するより先に下層にある人々の間で自分たちの不幸、不満を解消してくれる強い味方がイメージ化されていた。それに、アーサーが本人の深刻な思い込みもあり推挙された。

 香港では政府や警察の見込みでは当初、過激な抗議活動に専従する若者は2〜3千人と見込まれ、それを平定すれば運動は弱体化するはずだった。だが逮捕者が2千人を超えようが運動は沈静化しない。警察の逮捕や今後の人生でのデメリットも恐れず果敢に警察に対峙しようとする千人規模の若者たちにとっては特定の指導者の尊厳は必要ないようだ。

 彼らにとっては、もはや民主派の議員も、若者主導で合法的抗議活動に専念する民陣(民主人権陣線)も、雨傘運動で名を揚げたジョシュア・ウォンやアグネス・チャウも自分たちのリーダーではない。武勇派の仲間すら名前もしなない同志と破壊行動を一緒にして終わればマスクをしたまま「それじゃ、また」もある。そのような中でジョーカーのようなヒーローの誕生は難しいか。そうそう、彼らは「個人崇拝」が好きな強権国家に対する反発で運動をしているのだった。