藤原秀人(ふじわら・ひでひと) フリージャーナリスト
元朝日新聞記者。外報部員、香港特派員、北京特派員、論説委員などを経て、2004年から2008年まで中国総局長。その後、中国・アジア担当の編集委員、新潟総局長などを経て、2019年8月退社。2000年から1年間、ハーバード大学国際問題研究所客員研究員。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
“中国屋”の記者がみた、民主化への渇望を抑えらない香港の現実
中国屋。私は長くそう呼ばれてきた。朝日新聞の特派員や論説委員として、中国を中心としたアジア情勢、とりわけ台湾海峡を挟む中国本土、香港、そして台湾の「両岸三地」を見つめ、追いかけ、そして伝えてきた。この夏、朝日新聞を“卒業”し、フリーのジャーナリストとして再スタートを切った。あらためて感じたのは、中国屋として見つめ続けた「両岸三地」の融合、摩擦、対立、そして乖離(かいり)が今後、アジア、そして世界をどう変えていくか、その深層と真相に迫り続け、それを記事にして残したいという思いだった。とすれば、書くしかない。まずは巨大な中国を民主化デモで揺さぶる、小さな香港から始めよう。
中国共産党最高指導者の毛沢東が1949年10月1日、北京の天安門上で中華人民共和国の建国を宣言してから70年がたった。ちょうどその日、私は香港にいた。民主化を求めるデモが連日伝えられる香港の今を見たかったからだ。
私は朝日新聞特派員として95年から翌年にかけての1年半、香港で暮らした元市民である。97年の中国への返還を目前にした英国領香港の人々は、迫りくる共産党統治に対する得体の知れない不安と、「東洋の真珠」とたとえられた繁栄が続くようにとの渇望がないまぜになっていた。私もそうだった。
香港には友人や知人たちがいる。よけいに、その行方は気になる。だから、返還後も私は機会を見つけては訪れてきた。今回は返還70年のとき以来2年ぶりだった。
香港に着いた9月29日の夕方、コンビニに行くつもりでホテルを出たところ、いきなり衝撃的な光景に出くわした。警察の機動隊が、デモ参加者の築いたバリケードをおもちゃのように破壊。目の前で催涙弾をデモ隊に向けて水平に撃ち始めた。
宿舎にしたホテルは香港島湾仔(ワンチャイ)の官庁街にあった。“デモ銀座”みたいなところだ。若者たちがどんどんと集まり、四方から機動隊が迫ってくる。香港のデモは予定されているものがあれば、SNS上などでの呼びかけで突然始まるものもあるとは聞いていたが、本当に急だった。
この日は日曜日。そのせいか、デモにはお年寄りや子供の参加も目立った。出張先の北京で春に骨折した私は杖をついていた。思うように動けず、催涙弾の煙に巻き込まれてしまった。目の奥がかゆい。涙がとまらない。しゃがんで我慢していたら、デモ参加者から「大丈夫か」と声をかけられた。
――どこから?
日本人だと言ったら、「応援ありがとう」という言葉が返ってきた。この日は日本など世界の各地で香港のデモを支援する集会が開かれていた。