2019年10月26日
スーツ姿で道を急ぐ人々が、忙しいビジネス街を絶えず行きかっていた。霞が関の官庁が立ち並ぶ一角へ、役所への申請や打ち合わせなどで向かう人たちもいるのだろう。ちょうど降りだした小雨から逃れるように、地下へと続く階段をおりる。地下鉄霞ケ関駅と直結しているレストラン街は、ちょうどランチが終わった直後の時間で、カフェでは仕事の合間なのか、財布だけを片手に談笑する人々でにぎわっていた。
この東京の「一等地」ど真ん中にお店を構えるのが、ベトナム料理店「イエローバンブー」だ。「今日は特に忙しくてね、4回転近くもお客さんが入ったんですよ」と店長の南雅和さんが出迎えてくれた。ディナーまでの休憩時間を惜しまず、疲れも見せずに私の取材に朗らかに応じて下さった。南さんの母国での名前はジャン・タイ・トゥアン・ビンさん。日本での暮らしが始まってから、もう36年にもなる。
「イエローバンブー」という店名の由来は、竹の一種である「金明孟宗竹」なのだそうだ。縁起がいいとされ、古くからベトナムで重用されてきたものだ。どんなことがあっても力強く伸びていく象徴でもあり、お店のコンセプトとも合致する。
この日腕をふるってくださったのは、エビと牛肉入りベトナムお好み焼き「バインセオトムティッツ」、レア牛肉入りの平打ちライスヌードル「フォー・ボータイ」、豚肉の香味焼きと生野菜、冷やしビーフンに、特製の甘酸っぱいフィッシュソースをかけた「ブンティッツヌオン」の3品だ。
お好み焼きは米粉をターメリックで色づけているため、見た目は卵焼きのようなキツネ色をしている。パリッとした皮の下には牛肉、エビと共に、もやしのシャキシャキとした食感が待っていた。ほんのりただようココナッツの風味がまろやかだ。
「フォーボータイ」はもっちりとした麺の上にレア牛肉をのせ、その上から熱々のスープをかけていく。さっぱりとした味のスープにしゃぶしゃぶのような感覚で牛肉をひたしていくので、食べ進めるごとに牛肉に熱が通り、食感が変わる。
一緒に添えられているライムや唐辛子を混ぜていくことによる味の変化もこの料理の魅力だ。「南ベトナムは、他の地域と比べて特に味が優しいんです。最初から辛い味つけで出てくるものはほとんどないんです」。だからこそ料理に添えて出すソースや調味料など、細部までこだわるのだという。
「ブンティッツヌオン」は、中まで味のしみこんだ肉と、野菜のみずみずしい食感が同時に楽しめ、肉料理としてもサラダとしても選びたくなる一品だ。そんな野菜をたっぷり使ったヘルシーなメニューは周辺のオフィスワーカーたちにも愛され、毎日のように足を運ぶお客さんもいるほどだという。
「若いときからお料理は好きでね、お客さんが来たら毎回のように自分で料理を作っていたんですよ。皆に食べてもらうのが楽しくて仕方がなかったんです」という南さん。作って下さった3品のお料理を食べながら、故郷の家を訪れた人々を、幼い南さんが嬉しそうにおもてなしをしていた光景が目に浮かぶようだった。「本場の味を伝えるレストランを開きたい」という夢を叶えるまで、どんな道のりをたどってきたのだろうか。それは世界情勢や社会の変化に翻弄され続けた、過酷な歩みでもあった。
南さんの出身地は、南ベトナムのサイゴンだ。「記憶に残っている街は、日本の昭和時代のような光景と重なるのではないでしょうか。今の子どもたちみたいに室内でゲームをするのではなく、とにかく外で、汗をかいて体全体を使って遊ぶんです」。路上でサッカーをしたり、草木で即席の遊び道具を作ったりと、南さんの脳裏にも懐かしい風景が浮かぶという。
けれども世界はその頃、東西冷戦期の真っただ中だった。その対立が直接の戦火となってしまったのが、ベトナム戦争だった。1975年4月30日、サイゴンは陥落。北ベトナムが勝利したことで、社会主義体制となる変化の中、「自由な空気は急激に奪われていくこととなった」と南さんは語る。
南さんの祖父、父、叔父は南ベトナムの政権関係者だった。特に父は軍関係者だったため、サイゴン陥落後に逮捕され、山奥の収容所へと連れて行かれてしまった。残された家族も散り散りの場所に移住を強いられ、南さんは祖父母と共に暮らすことになる。
「あの当時は、少し離れた場所に行くにも、公安の許可が必要とされていました。学校でも南出身者と北出身者は分けられていましたし、私たちのような南の政権関係者の家族だった人間が、どんなに優秀な成績をおさめても、まともな進学や就職ができるのかも分かりませんでした。このままでは未来が閉ざされていく、という危機感がありました」。
ベトナム戦争の終結以前から、すでに多くの人々が国外へと逃れていた。サイゴン陥落後、国外逃亡がもし見つかれば、逮捕されることは必至だった。それでも危険を冒して海を越えようとする人々が、毎日のように犠牲になり続けていた。南さんも、よりよい未来のためには、他に選択肢はないのではないかと思い始めた。
そんな大きな決断を前に、こっそりと背中を押してくれたのは祖父だった。「将来のためには、ここに残っていても仕方がない。新しい場所で、新しい人生を送るんだ」。自由なくして、人は人らしく生きられない、と祖父は南さんに語りかけてくれた。
密航計画が漏れないよう、他の家族にさえ相談を一切しないまま、1983年8月、14歳だった南さんは一人、木造船へと乗り込んだ。いかにも頼りなく見えたその漁船は、長さ13メートル、幅4メートルほどで、通常なら30人も乗れないような大きさだった。そこに乳児も含め、105人がぎゅうぎゅうになって乗船したのだ。「日本の朝の通勤ラッシュの電車よりも、もっと過密だと思って下さい」。身動きもとれないような船内で、食料も水も、あっという間に尽きていった。
海へ出て4日目、薄暗く視界のおぼつかない早朝に、南さんたちは船らしい小さな灯りが彼方に揺れているのを見つけた。「皆体力はほとんど残っていないはずだったにもかかわらず、どこからか力がわいてきて、立ち上がって手を振って叫びました。“助かる”というよりも、“ああ自分はまだ生きている”という喜びだったと思います」。
漂流している南さんたちの船を発見したのは、沖縄水産高校の実習船だった。定員75人の船に、実習生たちがすでに合わせて69人乗船していた。南さんたち105人を乗せれば、定員の倍を優に超えてしまう。それでも当時の船長は、南さんたちを助けることを即座に決め、次の寄港地まで日用品や食べ物を分け合って過ごしてくれたのだ。
フィリピン・マニラに上陸した後、南さんは難民となった人々を一時保護のため収容する長崎の「大村難民一時レセプションセンター」へと移る。その後、日本赤十字社が設置した沖縄の本部国際友好センターで約8カ月間を過ごし、東京都品川区の「国際救援センター」で、定住のための支援を受けることになる。サイゴンが陥落する1975年以前からインドシナ3国と呼ばれるベトナム・ラオス・カンボジアから多くの難民が日本にも逃れてきていたものの、公的支援は追いついていなかった。国際救援センターは、南さんが日本に逃れたのと同じ年の1983年に、日本での自立支援が受けられる場としてようやく日本政府が開設したものだ。
日本に来るまで、南さんの中での日本のイメージはほとんどないに等しかった。「ましてや日本の文字や言葉なんて想像もつかなかったです。最初に覚えたひらがなだけではなくて、まさか漢字を使うなんて知りませんでした。それを幼稚園レベルから始めて、1年で覚えなければならないんですよ」。センターでは日本語だけではなく、ゴミの分別など、暮らしに必要なことや文化も学んでいった。言語の難解さに戸惑いながらも、日常の中には新鮮な驚きもあったという。
当時は自動改札がなく、駅の改札には常に駅員さんが立っていた。「あの人たちの能力には驚かされましたよ!何人ものチケットをぱっと見ただけで、“お金が足りません!”とすぐ判断できるなんて。見るたびに感動してしまいました」と、今はほとんど見られない光景を振り返って楽し気に笑った。
その後、電気基盤を作る会社に入社し、発注書類などをしっかりと読み込めるようにと日本語の勉強を独自に続けた。その姿勢が評価され、16歳にして現場リーダーとなったのだという。会社に信頼されているのは、嬉しかった。それでもさらに勉強を続けたいと仕事を辞め、奨学金を得て高校、大学と進学し、建設業・電気設備系の会社に就職する。日本国籍を取得したのもこの頃だった。
当時パスポートのなかった南さんは、国から発行された「再入国許可証」で国内外を出入りするほかなかった。ところが大学卒業後にイタリアに渡航したところ、ビザが添付されていたにもかかわらず「再入国許可証」が何かを認識してもらえず、「これは偽物だ」と警察を呼ばれてしまう事態になったのだ。そうした不便さを解消するのはもちろんのこと、「第二の故郷としての日本で、日本人として生きていきたい」という気持ちが強くあった。日本国籍取得の際の名前は、難民支援に尽力してきた故・犬養道子さんが考えてくれた。「南ベトナム出身だから「南」。若い頃は戦争ばかり経験してきたから、日本でこれから平和に生きてほしい、という願いが「雅和」には込められているんです」。
その後、南さんに思わぬ形で、ベトナムへ戻る契機が訪れた。海外事業部の一員として、ベトナム駐在することとなったのだ。最初に訪れたのは1994年、故郷のある南部ではなく、北部だった。ベトナムではまだ外国人の滞在が厳しく管理されていたため、親族の所在はぼんやりとつかめていたものの、訪れることもままならなかったという。
その頃から南さんは、ベトナム料理店を開きたいという夢を抱いていた。「あそこのお店がおいしい」と聞けば、必ず足を運んだ。「高級店ではなく、屋台など小さなお店を好んで訪れていました。あまり大きなところに行くと外国人向けになってしまいますから。庶民の味をもっと学びたかったんです。おいしい料理が出てきたときは、お店の人に“この味はどうやったら出せるのか”と必ず尋ねていました」。
研究し、ノウハウを学び、場所を探し、準備期間は7年を要した。2011年に今の場所でイエローバンブーを開いた後も、味の鍛錬は欠かさないという。「ベトナム料理が食べたい、とわざわざ来て頂いてお金を払ってくれているんだから、日本人好みの味に合わせるのではなく、現地の本場の味を再現したいんです」。お客さんに声をかけては感想を聞き、食べ残した人がいればなぜ完食しなかったのか、徹底的に考え続ける毎日を送った。
こうして念願のお店は開けたものの、南さんにはもう一つ、果たしたい夢があった。自分を救出してくれた、沖縄水産高の実習船の船長たちとの再会だった。「あそこでもしも無視されていたら、私は今、ここでお話しできていなかったでしょう。どこかの海の底に沈んだり、サメのえさになっていたりしたのかもしれないのですから」。当時はまだ日本語が分からなかったものの、船体に書かれていたローマ字の「SHONANMARU」という名前だけは鮮明に覚えていた。
お店を訪れたお客さんにも、「何とかお礼を伝えたい」、とたびたびその船の話はしていた。転機は昨年夏だった。イエローバンブーを訪れた沖縄の高校教師が、南さんから聞いた「SHONANMARU」の話を地元新聞社に伝え、ついに縁がつながったのだ。当時の実習船「翔南丸」船長の宮城元勝さん(75)は健在だった。南さんはすぐに、沖縄行きを決めた。
那覇へと降り立ち、かりゆし姿で出迎えてくれた宮城さんを真っ先に固く抱きしめた。「36年ぶりの再会は言葉になりませんでした。この感謝は言い表しようがないほどなんです。自分の家族に久しぶりに再会したかのような感覚でした」。
南さんをはじめ、日本が当時受け入れたインドシナ難民は1万人を超えた。あれから40年近くが経ち、むしろ難民受け入れの門戸が狭まっていることは、「進歩が見られず悲しい」と南さんは率直に語る。「逆の立場で、もしも自分が外国で受け入れられなかったときの気持ちを考えてほしいんです。難民は誰も難民になりたいと思っていません。迫害で生きていけない、暮らせないからやむを得ずやってきたんです。“残りの人生を、どうか日本で暮らさせてほしい”とここへ来ている人たちに対して、日本政府の考えはあまりに古いものです」。南さんたちが日本語を学んだ「国際救援センター」は2006年に閉鎖されている。自身を受け入れてくれた日本に感謝をしているからこそ、今の難民政策に対するもどかしさも深い。出入国や難民認定などに責任を負う法務省は、南さんのお店のすぐそばだ。
そんな南さんには今、もう一つ、新たな夢がある。この店に宮城さんたちを迎え入れることだ。沖縄を訪れたとき、「絶対東京に行きますからね」と宮城さんたちは約束してくれたという。こんなにおいしいお店なら宮城さんたちもきっと喜んでくれるはず、と南さんに伝えると、「おいしいかどうかは、私が判断するんではなく、お客さんたちですから。私たちは一生懸命、愛を込めて作るだけです」とはにかんだ。
ベトナムで、家族で食卓を囲んでいたあの日々はもう戻ってこないかもしれない。けれど日本の「家族」を自身の料理でおもてなしする日は、もうすぐそこだ。
(この連載は毎月第4土曜日に掲載します)
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