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小沢一郎が明かす「宮沢内閣誕生の舞台裏」

(17)宮沢が首相に就任し、金丸は人生最後の落とし穴に落ちた

佐藤章 ジャーナリスト、慶應義塾大学非常勤講師、五月書房新社編集委員会委員長

一夜にして翻った金丸、竹下、小沢の決定

 小沢一郎が政治改革の旗を高く掲げて有志とともに自民党を割り、日本政界に嵐を巻き起こす前夜、日本の政治は高くて厚い壁にぶち当たっていた。

 その壁の内側では、竹下登内閣がリクルート事件で崩壊し、次いで立てられた海部俊樹内閣はまさに政治改革の失敗で退陣に追い込まれた。

 自民党最大派閥の会長で「キングメーカー」の名をほしいままにしていた金丸信は、派閥の若きエース、小沢を後継総裁に指名、まる一日説得に費やしたが、小沢は自民党総裁になり内閣を組織することを固辞し続けた。

 小沢と並ぶ自民党の最大実力者で、しかも先輩格に当たる金丸と竹下の二人が、本音では政治改革に反対していることを知っていたからだ。先輩の最大実力者二人が反対している改革など実現できるわけがない。

 小沢は、権力だけが欲しい政治屋ではない。以前の回でも記したが、ここで20世紀前半スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットの嘆きの言葉を引用したい。

 「今日、自己の政治的行為を不可避的な行為と感じている政治家は一人もいない」(オルテガ『大衆の反逆』ちくま学芸文庫)

 自己の政治的行為を不可避的なものと感じている現代日本の政治家も前世紀前半のスペインと同様、小沢以外にはいないのではないだろうか。

 つまり、オルテガの言葉を再び借りれば、小沢は「自己の根をもった生」「真正な生」、自らが選び取った政治的使命を断乎として生きる類いまれな政治家なのだ。

 小沢が首相の椅子を固辞し続けると、その結果を待っていた3人のベテラン政治家が名乗りを挙げた。自民党の派閥、宏池会から宮沢喜一、清和会から三塚博、中曽根派から渡辺美智雄の3人だ。

 1991年10月10日午後3時、東京・永田町二丁目にある十全ビルヂング3階、小沢の個人事務所に元蔵相の宮沢が訪ねてきた。小沢はわざわざエレベーターまで迎えに出た。3人の政策や政治姿勢を小沢が直接問い、最大派閥として推すべき人物を判断するためだった。

 この時、朝日新聞をはじめとするマスコミは宮沢本命の報道を打っていた。面談の3日前、10月7日の朝日新聞夕刊1面は、最大派閥竹下派の水面下では宮沢支持が広がっていることを伝え、さらに小沢が3人に面談した10日の朝刊1面では「竹下派、宮沢氏支持へ」と打っている。

 しかし、驚くべきことに、竹下派の本当の水面下である金丸、竹下、小沢の内々の相談の場では、別の人物を次期総裁に決定していた。そしてまた驚くべきことに、その結論が一夜にして翻った。しかも、その翻した人間とは――。

拡大自民党総裁選で小沢一郎氏(左)との会談に臨む宮沢喜一氏。小沢氏は国会近くの自らの事務所に宮沢喜一、三塚博、渡辺美智雄3氏をそれぞれ招き、政策など総裁選に臨む考え方を聴いた1991年10月11日、東京・永田町

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筆者

佐藤章

佐藤章(さとう・あきら) ジャーナリスト、慶應義塾大学非常勤講師、五月書房新社編集委員会委員長

ジャーナリスト学校主任研究員を最後に朝日新聞社を退職。朝日新聞社では、東京・大阪経済部、AERA編集部、週刊朝日編集部など。退職後、慶應義塾大学非常勤講師(ジャーナリズム専攻)、五月書房新社取締役・編集委員会委員長。著書に『ドキュメント金融破綻』(岩波書店)、『関西国際空港』(中公新書)、『ドストエフスキーの黙示録』(朝日新聞社)など多数。共著に『新聞と戦争』(朝日新聞社)、『圧倒的! リベラリズム宣言』(五月書房新社)など。

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