(18)竹下派分裂から自民党離党、そして政界再編へ。二大政党政治への強い思い
2019年10月28日
小沢一郎の人生と戦後日本政治の流れの大きな屈曲点となった1992年、93年の出来事についてはその経緯を改めて記しておく価値がある。現代政治史の中心にいる小沢の考えと歴史の経緯との関連を踏まえなければ、日本政治の現在地点も正確には捉えきれないからだ。
前年に宮沢喜一が首相になったことを受けて1992年1月に金丸信が自民党副総裁に就任した。しかし、東京地方検察庁特捜部と警視庁はその翌月、東京佐川急便の強制捜査に着手、暴力団「稲川会」の本部などを関連で家宅捜索した。同年8月、捜査の過程で東京佐川急便から金丸に5億円の献金が渡っていたことがわかり、政治資金規正法(量的規制)違反の疑いがあることから金丸は副総裁を辞任した。
同年10月、さらに金丸は衆院議長に議員辞職願を提出すると同時に竹下派会長も辞任した。このため、竹下派内部では、後継会長をめぐって小渕恵三を推す竹下登側と羽田孜を立てる小沢一郎グループの対決の構図が浮かび上がった。竹下側は羽田たちが欠席した幹部会で小渕の会長就任を決め、このことが竹下派分裂の決定的要因となった。
分裂のバックグラウンドには、小選挙区制の導入などで日本政治の改革を目指す小沢グループと、本格的な改革には消極的な竹下側との政治思想、政治姿勢の断裂があった。
小沢グループは羽田を立てて「改革フォーラム21」を結成。翌1993年6月には改革フォーラム21は宮沢内閣不信任案に賛成票を投じ、不信任案可決、衆院解散に追い込んだ。
一方、政治資金規正法の量的規制違反を認めた金丸は最高刑の罰金20万円の略式命令を受けたが、「5億円に対する20万円」という金額のアンバランスに世論が沸騰。世論に押される形で東京国税局は東京地検特捜部に金丸を脱税で告発、93年3月に特捜部は金丸を巨額脱税の罪で起訴した。
宮沢内閣を瓦解させた改革フォーラム21はその直後に自民党を離党、「新生党」を結成した。新生党を率いた小沢は、総選挙後に非自民党勢力を結集させて細川護煕政権を誕生させた。
磐石と思われていた自民党政権を倒して、日本政治にダイナミズムを失わせていた1955年体制を終焉に導くことができたのは、自らに帯びた使命感を最後までぶれずに貫いた小沢という希有な政治家が存在したからだった。
――政治資金規正法違反の責任を取って金丸さんが竹下派会長を辞めた後、竹下派は竹下さん側と小沢さん側とで対立していきます。両グループが対立を深める原因として、政治改革に対する姿勢、路線の違いというものが大きかったのではないですか。
小沢 それはもう全然違います。ぼくは最初に選挙に出た時から小選挙区制が日本の民主主義にとっては必要だと言ってきたけど、ぼくがずっと言ってきたから金丸さんや竹下さんは反対しなかった。小沢が言うから黙っていただけで、腹の中では反対なんです。しかも、大部分の自民党議員も反対だったんです。それは本当はおかしいんだけどね。鳩山(一郎)さんも田中(角栄)さんも小選挙区制をやろうとしていたんだから。
――そうでしたね。
小沢 自民党議員が反対というのはおかしいことなんだけど、やっぱりみんな、ぬるま湯がいいということなんですね。ぼくの議論としてはその考え方はだめだということだから、ぼくとそのほかの人たちの本質的な考え方の違いというのは非常に大きかったと思います。
――なるほど。しかし、竹下さんは本来、政治改革をやるとずっと言ってきていましたね。
小沢 いや、言葉の意味が全然違います。同じ政治改革という言葉でも、竹下さんの言っていることはなんだかよくわからないことだったんです。日本人は一般的に言っておっかなびっくりでしょう。毎日少しずつ変えていこうという発想が強いものだから、基本的に大きな変化は好まない。竹下さんはその中でも「丸く丸く」という姿勢の代表みたいな感じだったから。
――小沢さんは、そういう「丸く丸く」のしがらみを断ち切るいい機会だと考えたわけですね。
小沢 そうです。
――そういうしがらみを断ち切るというのは、自民党にとっては自分たちが拠って立っている基盤、そういったものから離れるということですよね。そこでお聞きしたいのですが、自民党が拠って立っている基盤というものはどういうものなのでしょうか。
小沢 それは旧体制です。俗に言う戦後体制、55年体制です。自民党で言えば、その体制を支えている団体、農協とか郵政とか医師会とかそういう旧体制からの決別になるわけです。小選挙区制になるとそれらの力は分散される。そういう具体的、実際的な問題もあります。それから、今までと違った小選挙区制で政権交代があると、その行き着く先は旧来の体制を大きく変えるということになりますから。
小沢が自民党幹事長だった1990年2月の総選挙は、有力政治家への未公開株ばらまきが問題となったリクルート事件の後だった。小沢の盟友、平野貞夫の回想によれば(『虚像に囚われた政治家 小沢一郎の真実』講談社+α文庫)、小沢は財界からの政治献金を個人個人ではなく党に一本化するという党改革構想を持っており、当時の経済団体連合会(経団連)に300億円の資金提供を要請した。小沢の「豪腕ぶり」が話題になるとともに「高圧的だ」という批判も出た。
――そこで思い出すのは、小沢さんが自民党幹事長時代、経団連に300億円の献金を求めたことがありました。豪腕過ぎると批判もされましたが。
小沢 そうですね。しかし、そんなに集まらなかったんだよ。ぼく自身は財界と付き合いがあまりありませんから、個人的には財界からお金をもらっていません。親父(小沢佐重喜)は後援会を作っていなかったし、ぼくも後援会は作っていません。
――しかし、簡単に言えば、自民党の拠って立つ基盤というのはそこのところにありますよね。
小沢 そういうことですね。それと決別するということです。それは仕方ないことなんです。ぼくはたまたま地元の皆さんがよくしてくれたから選挙が強かった。だから、金なんか要らないという意識がありましたから政治家心理としてはお金のことは余計気にしなかったのでしょう。だけど、財界や労働組合とかと喧嘩しない他の人は、お金がなけりゃとてもやっていけないという感じなんでしょう。
――しかし、どうでしょうか。選挙というものはお金のかかるものですね。拠って立つ基盤を崩すとなると新しい基盤というものはどういうふうになるのでしょうか。
小沢 やっぱり良識ある大衆ですね。その大衆にしても、やっぱり自分自身で努力して絆を作り上げていかなければだめなんです。ぼくは若い政治家にいつも言うんですけど、そういうものは遊んでいては作り上げることはできないんです。
今、いろんな意味で旧体制のほころびが目立ってきました。特にソ連の崩壊、東西対立の変化というものは歴史的な転換でした。だから、ある意味でそういうものに対応してきた旧来の戦後体制の官僚支配のもとでは、新しい大衆と絆は作れないということですね。
――自民党の拠って立っていた基盤というのは、明治以来の保守政党の歴史そのものとも言えますよね。これを変えるというのはやはり大変なことですね。
小沢 大変なことだけど、国民は内心は変えたがっていたんです。経済が右肩上がりの時はいいんだけど、それがだめになるとやっぱり自分の懐に響くから、これではだめだとなる。それで矛盾がどんどん出てくるから、やっぱり新しく変えた方がいいんじゃないかという意識になってきたわけです。
――話は最初に戻りますが、金丸さんの後の竹下派会長を決める時、竹下さん側は小渕恵三さんを推しましたね。
小沢 竹下さんが推したんだ。竹下さんは小渕さんをものすごくかわいがっていた。金丸さんがぼくをかわいがっていたのと同じですね。おぶっちゃん(小渕)は竹下さんの言うことは何でも聞いてちゃんと対応していましたから。
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