鈴木洋仁(すずき・ひろひと) 東洋大学研究助手
1980年東京都生まれ。2004年京都大学総合人間学部卒業後、関西テレビ放送入社。その後、ドワンゴ、国際交流基金、東京大学特任助教を経て現職。東京大学大学院学際情報学府博士課程修了。博士(社会情報学)。専門は社会学。著書に『「元号」と戦後日本』(青土社)、『「平成」論』(青弓社)がある。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
「平成」「戦後」「昭和」の遺産を受けた「令和」という時代のイメージは
10月22日、「即位礼正殿の儀」の日に予定されていた、天皇・皇后両陛下のパレード「祝賀御列の儀」が延期されました。先日、東日本の広い地域に大きな被害をもたらした台風19号の被災者に配慮したと、政府は説明しています。
パレードが中止されるということで、「令和」という元号は早くも不吉な事態に見舞われているとか、そもそもパレードに高額な公費をかける必要があるのかといった議論を、ここでしたいわけではありません。また、中止されるからといって不吉な元号だとは考えていませんし、パレードは税金の無駄遣いなんて思ってもいません。
私が考えたいのは、「令和」への改元から半年がすぎ、即位礼正殿の儀というひとつの節目を迎えるにあたって、私(たち)が持つこの時代をめぐるイメージについてです。
「平成最後」という枕詞(まくらことば)が、いわゆる「バズワード」、つまりネット上の流行語になったのは記憶に新しいところです。
いや、「記憶に新しい」と書きましたが、果たして本当にそうでしょうか?ひょっとすると、「平成最後」を使っていた記憶すら、もはや風化しているのではないでしょうか?
たとえば、朝日新聞のオンライン記事データベース「聞蔵Ⅱビジュアル」によれば、「平成最後」という言葉は、2019年4月に215件使われ、その後、5月には110件、6月以降は17件と、急速に減っています(2019年10月19日閲覧時点)。
「平成」は4月30日に終わりましたので、どんどん使われなくなるのはある意味、当たり前ですが、私が記憶の風化を疑う理由は、「平成最後」に代わる(はずの)「令和初」や「令和最初」が、あまり使われていないからです。
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