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自衛隊の海外派遣を巡り令和のいま議論すべきこと

政府がホルムズ海峡への自衛隊派遣の検討開始。海外で実績を積んだ自衛隊の今後は?

加藤博章 関西学院大学国際学部兼任講師

記者会見で、自衛隊をホルムズ海峡周辺に独自派遣する方針を発表する菅義偉官房長官=2019年10月18日、首相官邸

 10月18日、菅義偉官房長官と河野太郎防衛大臣は、悪化する中東・ホルムズ海峡情勢に鑑み、日本が独自に同海峡周辺に自衛隊を派遣する検討を行うと発表した。アメリカが提唱する「海洋安全保障イニシアチブ」には参加しない。自衛艦を派遣するか、ソマリア沖に派遣している海賊対処部隊を活用する。実現すれば、令和に入って初めての自衛隊海外派遣の実現になる。

自衛隊の海外派遣は当たり前になったが……

 今日(2019年)、自衛隊が海外に派遣されることはごく当たり前のこととなっている。しかし、1990年代初頭、すなわち自衛隊の海外派遣が開始された頃は、派遣を巡って激しい議論がかわされていた。

 初の海外派遣は1991年4月26日。海上自衛隊の掃海部隊がペルシャ湾に向かった。翌92年には「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律」(PKO協力法)が制定された。

 PKO協力法案が国会で審議された際には、デモ隊が国会の外で抗議の声をあげ、野党は牛歩戦術などの戦術を駆使して、法案成立を妨害した。2016年に施行されたいわゆる平和安全法制も、国会で法案が審議された時はデモ隊が国会を取り囲み、国会でも大きな議論となった。しかし、議論の焦点は集団的自衛権を認めるかどうかで、自衛隊海外派遣はほとんど議論の対象とならなかった。

ソマリア沖での活動する海上自衛隊。補給艦「ときわ」から洋上補給を受けるため、「ときわ」の船尾方向から接近する、(手前から)護衛艦「さざなみ」と「さみだれ」 = 2009年6月6日、アデン湾洋上
 四半世紀を経て、自衛隊の海外派遣は、国内で認知されるようになったと言うことができよう。

 そもそもなぜ、自衛隊は海外に行くのだろうか。自衛隊の海外派遣が議論されるたびに、合憲か違憲かばかりが取りざたされ、自衛隊が派遣される理由が議論となることはあまりない。

 平成の時代、海外に派遣された自衛隊は様々な任務をこなし、実績を積んだ。令和はどうなるか。ホルムズへの自衛隊派遣の検討開始を機に、自衛隊が海外に派遣されることの意味をあらためて考えてみたい。

幾度もあった海外派遣の議論

 前述のように、湾岸戦争停戦後の1991年4月26日、ペルシャ湾に掃海部隊が派遣されたのが海外派遣の始まりだった。停戦前は自衛隊派遣を巡って国会は紛糾。政府も自衛隊派遣を否定していたが停戦後、一転して、自衛隊の海外派遣が行われた。これを指して、日本がある日突然、方針を転換したと考える識者も多い。

 しかし、実際には、自衛隊派遣についての議論は過去に幾度も行われていた。たとえば、自衛隊発足から間がない1958年、国際連合レバノン監視団(United Nations Observation Group in Lebanon= UNOGIL)への要員派遣が議論となっている。政情が不安なレバノンに国連が平和維持部隊を送ったのだが、日本は結局、派遣要請を断っている。

 時の岸信介首相は、安保条約改定と安保条約改定をテコにした憲法改正を構想しており、その前に世論を刺激することをおそれて、要請を受諾しなかったのである。ただし、当時は国際法学者の入江啓一郎や国際政治学者の坂本義和が派遣を支持するなら、必ずしも反対の声が大きかったわけではない。

 それから約30年後の1985年、国際緊急援助隊の発足に向けた議論が起こり、やはり自衛隊参加が議論された。しかし、メキシコ地震やコロンビアでの噴火といった大規模災害が起きたが、日本は救助隊を派遣することができなかった。

 その教訓から、国外での大規模災害に対応できる支援の枠組みをつくろうと、日本は国際救助隊(仮称)を構想した。構想されていたのは、警察や消防などの人々を動員してつくる救助チームである。このときも、自衛隊の派遣問題が議論となったが、またも実現しなかった。自衛隊参加問題を取り上げることで国会が紛糾して法案成立が遅れることを、外務省が危惧したからである。1987年、国際緊急援助隊の派遣に関する法律が成立したが、自衛隊の参加は認められていない。

 くしくも同年、掃海艇派遣問題が議論を呼んだ。イラン・イラク戦争の最中であり、両国ともに付近を航行するタンカーを攻撃していた。周辺海域への機雷敷設が問題となり、アメリカを中心とした国々が掃海部隊を派遣し、機雷除去に当たった。その一環として、日本にも派遣要請があったのである。

 当時、日米間では経済摩擦が問題となっており、アメリカとしては日本に対して応分の役割分担を求めた格好だ。中曽根康弘政権は、平時であれば自衛隊法上、掃海艇派遣は認められるとの政府見解を出した。

湾岸戦争のトラウマ

 1990年8月2日、イラクが突如、クウェートに侵攻した。アメリカはイラクを非難、アメリカを中心とした国々は多国籍軍を結成し、日本にも協力を求めた。当時の海部俊樹首相はアメリカへの支持を表明、政府として支援することになったが、ここで議論になったのが日本国憲法と戦争の関係である。

 国は戦争を始める前から、戦争に向けての準備をする。ただし、その間は戦争状態ではない。このときも、イラクのクウェート侵攻から多国籍軍が攻撃を開始する1991年1月までは、戦争はなかった。とはいえ、この間に行う支援は開戦後、戦争に使われる。この点が憲法9条にからんで問題視された。戦争開始以前に行う支援といえども、結局は戦争協力になり憲法違反という指摘が、社会党など野党から出されたのである。

 国会では、野党が政府の支援は戦時協力に等しいと激しい批判を浴びせる。その様子が欧米で報道され、日本は同盟国に非協力だとして、「ジャパンバッシング」に拍車がかかった。結果的に湾岸危機における日本の協力は諸外国に評価されなかった。外務省の当局者はこうした事態を二度と繰り返すまいと考えた。このときのトラウマが自衛隊海外派遣を進める原動力になったといえよう。

南スーダンPKOから撤収する自衛隊員=2017年5月25日 、ジュバ

自衛隊派遣に代わる案を提示できなかった反対勢力

 湾岸戦争は自衛隊派遣に反対する勢力にとっても大きな意味をもった。日本の国際貢献が議論となるなか、どのような自衛隊派遣にかわる代替策を出すのかが問われたからである。だが、結論から言うと、この時、反対勢力は代案を出せなかった。

 社会党右派など、一部の人は代案の提出を試みたが、そうした試みは失敗に終わる。リベラルの側にとって、自分たちの考える国際貢献を社会に提示するチャンスだったが、絶好の機会を生かすことができなかったのである。

 1991年1月の多国籍軍によるイラクを攻撃で始まった戦争は短期間で終結した。憲法の足枷がなくなった日本として、どういう国際貢献ができるか検討した結果、中曽根首相が87年に示した平時の掃海艇派遣を合憲という政府見解に基づき、新しい法律の必要がない掃海艇派遣が選ばれた。

 4月の統一地方選挙では自民党が圧勝し、野党勢力は大きく議席を減らした。国際貢献問題は国政に関するものであり、地方選挙の争点になるような問題ではない。とはいえ、国民的な大きな議論となったにもかかわらず、それが選挙に影響を及ぼさなかったという意味では、野党の姿勢が世論に響いていなかったともいえる。こうしたなか、4月26日に自衛隊初の海外派遣が行われた。

カンボジアでPKOに初めて参加

 ペルシャ湾への掃海艇派遣が終わると、自民党政権は自衛隊派遣の拡大を試みた。これまでに議論となってはいたが、実現しなかったPKOや国際緊急援助活動が選ばれた。これらの活動は、既存の法体系では実現できず、新たな法律が必要だった。

 宮沢喜一政権のもと、国会で自衛隊海外派遣についての論戦が交わされる。このときも議論の中心は憲法だった。自衛隊の活動が合憲か否か、それのみが対象となり、日本が国際社会に対して、どのような貢献をすべきかという議論は深まらなかった。

 自民党は公明党や民社党と協力し、「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律」(PKO法)と「国際緊急援助隊法改正」の成立を期す。社会党等は牛歩戦術といった国会戦術を駆使し、法案成立を阻止しようとしたが、数にまさる自公民が押し切り、PKO法と国際緊急援助隊法改正は成立。自衛隊の活動は拡大する。

 この法律に基づき自衛隊が最初に派遣されたのが、カンボジアでのPKOである。当時のカンボジアは長年に及んだ内政が終わって和平が実現、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が展開していた。日本はカンボジアの和平を積極的にかかわり、その実現に対して奔走していた歴史を持つ。UNTACの特別代表を日本人の明石康が務めていたこともあり、UNTACに加わるのは自然の流れでもあった。

 1992年9月8日、政府は「カンボジア国際平和協力業務実施計画」及び「カンボジア国際平和協力隊の設置等に関する政令」を閣議決定、自衛隊初のPKO派遣が決まった。内戦終結間もないカンボジアは情勢が不安定で、文民警察官として派遣された高田晴行警部補(殉職により警視に昇進)や、選挙監視員の中田厚仁氏が殺害されるなど、各国合わせて78人もの犠牲者を出した。しかし、日本はこれを皮切りに、継続的にPKOに部隊を派遣し続けている。

UNTACに派遣。カンボジアタケオ州の国道の補修をする自衛隊。自衛隊員が旗を持ち交通整理もしている=1992年12月12日

大問題になったイラクへの自衛隊派遣

 自衛隊の海外派遣をめぐり、カンボジアPKO以降、最も大きな議論となったのは、イラクへの派遣だった。

 2001年9月11日の同時多発テロ(9・11)の後、アメリカはテロとの戦いに突き進み、同盟国の日本も協力をしていた。テロの首謀者と見られたイスラム原理主義組織タリバーンの拠点となっていたアフガニスタンをアメリカを中心とする国々が攻撃すると、日本も海上自衛隊の艦船を派遣し、インド洋で給油活動を行った。

 だが、アメリカのイラク戦争に対しては、日本国内でも疑問の声が大きかった。そもそもアメリカが開戦の根拠としたイラクの大量破壊兵器保有には疑わしい点があり、テロとの戦いに参加した国でも、フランスやドイツのように協力しない国もあった。

 日本においても、イラク戦争に協力すべきかどうかが大問題になった。最大の焦点は、自衛隊が派遣先が戦闘地域か否、だった。戦闘地域なら違憲である。イラク戦争においても、問題となるのは自衛隊派遣が合憲か否かであり、日本の国際貢献のあり方ではなかった。

 2014年7月、安倍政権は集団的自衛権に関する政府解釈を変更。翌15年に平和安全法制(「我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律(通称 平和安全法制整備法)」と「国際平和共同対処事態に際して我が国が実施する諸外国の軍隊等に対する協力支援活動等に関する法律(通称 国際平和支援法)」の総称)が成立した。この時も議論となったのは、法律が合憲であるか否であり、日本が国際社会にいかにかかわるかということは議論とならなかった。

イラク・サマワの陸上自衛隊宿営地に掲揚された日の丸=2004年2月28日

日本の国際貢献のあり方の本格議論を

 こうして平成を振り返ると、自衛隊海外派遣は着実に実績が積み重ねたと言えよう。

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