自衛隊の海外派遣を巡り令和のいま議論すべきこと
政府がホルムズ海峡への自衛隊派遣の検討開始。海外で実績を積んだ自衛隊の今後は?
加藤博章 関西学院大学国際学部兼任講師
幾度もあった海外派遣の議論
前述のように、湾岸戦争停戦後の1991年4月26日、ペルシャ湾に掃海部隊が派遣されたのが海外派遣の始まりだった。停戦前は自衛隊派遣を巡って国会は紛糾。政府も自衛隊派遣を否定していたが停戦後、一転して、自衛隊の海外派遣が行われた。これを指して、日本がある日突然、方針を転換したと考える識者も多い。
しかし、実際には、自衛隊派遣についての議論は過去に幾度も行われていた。たとえば、自衛隊発足から間がない1958年、国際連合レバノン監視団(United Nations Observation Group in Lebanon= UNOGIL)への要員派遣が議論となっている。政情が不安なレバノンに国連が平和維持部隊を送ったのだが、日本は結局、派遣要請を断っている。
時の岸信介首相は、安保条約改定と安保条約改定をテコにした憲法改正を構想しており、その前に世論を刺激することをおそれて、要請を受諾しなかったのである。ただし、当時は国際法学者の入江啓一郎や国際政治学者の坂本義和が派遣を支持するなら、必ずしも反対の声が大きかったわけではない。
それから約30年後の1985年、国際緊急援助隊の発足に向けた議論が起こり、やはり自衛隊参加が議論された。しかし、メキシコ地震やコロンビアでの噴火といった大規模災害が起きたが、日本は救助隊を派遣することができなかった。
その教訓から、国外での大規模災害に対応できる支援の枠組みをつくろうと、日本は国際救助隊(仮称)を構想した。構想されていたのは、警察や消防などの人々を動員してつくる救助チームである。このときも、自衛隊の派遣問題が議論となったが、またも実現しなかった。自衛隊参加問題を取り上げることで国会が紛糾して法案成立が遅れることを、外務省が危惧したからである。1987年、国際緊急援助隊の派遣に関する法律が成立したが、自衛隊の参加は認められていない。
くしくも同年、掃海艇派遣問題が議論を呼んだ。イラン・イラク戦争の最中であり、両国ともに付近を航行するタンカーを攻撃していた。周辺海域への機雷敷設が問題となり、アメリカを中心とした国々が掃海部隊を派遣し、機雷除去に当たった。その一環として、日本にも派遣要請があったのである。
当時、日米間では経済摩擦が問題となっており、アメリカとしては日本に対して応分の役割分担を求めた格好だ。中曽根康弘政権は、平時であれば自衛隊法上、掃海艇派遣は認められるとの政府見解を出した。
湾岸戦争のトラウマ
1990年8月2日、イラクが突如、クウェートに侵攻した。アメリカはイラクを非難、アメリカを中心とした国々は多国籍軍を結成し、日本にも協力を求めた。当時の海部俊樹首相はアメリカへの支持を表明、政府として支援することになったが、ここで議論になったのが日本国憲法と戦争の関係である。
国は戦争を始める前から、戦争に向けての準備をする。ただし、その間は戦争状態ではない。このときも、イラクのクウェート侵攻から多国籍軍が攻撃を開始する1991年1月までは、戦争はなかった。とはいえ、この間に行う支援は開戦後、戦争に使われる。この点が憲法9条にからんで問題視された。戦争開始以前に行う支援といえども、結局は戦争協力になり憲法違反という指摘が、社会党など野党から出されたのである。
国会では、野党が政府の支援は戦時協力に等しいと激しい批判を浴びせる。その様子が欧米で報道され、日本は同盟国に非協力だとして、「ジャパンバッシング」に拍車がかかった。結果的に湾岸危機における日本の協力は諸外国に評価されなかった。外務省の当局者はこうした事態を二度と繰り返すまいと考えた。このときのトラウマが自衛隊海外派遣を進める原動力になったといえよう。

南スーダンPKOから撤収する自衛隊員=2017年5月25日 、ジュバ