自衛隊の海外派遣を巡り令和のいま議論すべきこと
政府がホルムズ海峡への自衛隊派遣の検討開始。海外で実績を積んだ自衛隊の今後は?
加藤博章 関西学院大学国際学部兼任講師
自衛隊派遣に代わる案を提示できなかった反対勢力
湾岸戦争は自衛隊派遣に反対する勢力にとっても大きな意味をもった。日本の国際貢献が議論となるなか、どのような自衛隊派遣にかわる代替策を出すのかが問われたからである。だが、結論から言うと、この時、反対勢力は代案を出せなかった。
社会党右派など、一部の人は代案の提出を試みたが、そうした試みは失敗に終わる。リベラルの側にとって、自分たちの考える国際貢献を社会に提示するチャンスだったが、絶好の機会を生かすことができなかったのである。
1991年1月の多国籍軍によるイラクを攻撃で始まった戦争は短期間で終結した。憲法の足枷がなくなった日本として、どういう国際貢献ができるか検討した結果、中曽根首相が87年に示した平時の掃海艇派遣を合憲という政府見解に基づき、新しい法律の必要がない掃海艇派遣が選ばれた。
4月の統一地方選挙では自民党が圧勝し、野党勢力は大きく議席を減らした。国際貢献問題は国政に関するものであり、地方選挙の争点になるような問題ではない。とはいえ、国民的な大きな議論となったにもかかわらず、それが選挙に影響を及ぼさなかったという意味では、野党の姿勢が世論に響いていなかったともいえる。こうしたなか、4月26日に自衛隊初の海外派遣が行われた。
カンボジアでPKOに初めて参加
ペルシャ湾への掃海艇派遣が終わると、自民党政権は自衛隊派遣の拡大を試みた。これまでに議論となってはいたが、実現しなかったPKOや国際緊急援助活動が選ばれた。これらの活動は、既存の法体系では実現できず、新たな法律が必要だった。
宮沢喜一政権のもと、国会で自衛隊海外派遣についての論戦が交わされる。このときも議論の中心は憲法だった。自衛隊の活動が合憲か否か、それのみが対象となり、日本が国際社会に対して、どのような貢献をすべきかという議論は深まらなかった。
自民党は公明党や民社党と協力し、「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律」(PKO法)と「国際緊急援助隊法改正」の成立を期す。社会党等は牛歩戦術といった国会戦術を駆使し、法案成立を阻止しようとしたが、数にまさる自公民が押し切り、PKO法と国際緊急援助隊法改正は成立。自衛隊の活動は拡大する。
この法律に基づき自衛隊が最初に派遣されたのが、カンボジアでのPKOである。当時のカンボジアは長年に及んだ内政が終わって和平が実現、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が展開していた。日本はカンボジアの和平を積極的にかかわり、その実現に対して奔走していた歴史を持つ。UNTACの特別代表を日本人の明石康が務めていたこともあり、UNTACに加わるのは自然の流れでもあった。
1992年9月8日、政府は「カンボジア国際平和協力業務実施計画」及び「カンボジア国際平和協力隊の設置等に関する政令」を閣議決定、自衛隊初のPKO派遣が決まった。内戦終結間もないカンボジアは情勢が不安定で、文民警察官として派遣された高田晴行警部補(殉職により警視に昇進)や、選挙監視員の中田厚仁氏が殺害されるなど、各国合わせて78人もの犠牲者を出した。しかし、日本はこれを皮切りに、継続的にPKOに部隊を派遣し続けている。

UNTACに派遣。カンボジアタケオ州の国道の補修をする自衛隊。自衛隊員が旗を持ち交通整理もしている=1992年12月12日