藤原秀人(ふじわら・ひでひと) フリージャーナリスト
元朝日新聞記者。外報部員、香港特派員、北京特派員、論説委員などを経て、2004年から2008年まで中国総局長。その後、中国・アジア担当の編集委員、新潟総局長などを経て、2019年8月退社。2000年から1年間、ハーバード大学国際問題研究所客員研究員。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
「香港第一」に「台湾第一」が共鳴。台湾で高まる「香港熱」
中国はアヘン戦争に敗れて香港を英国に奪われ、日清戦争では台湾を失った。中国共産党は中国国民党との内戦には勝利したものの、台湾では国民党支配が続き、香港は英国領のままだった。台湾海峡の両岸にある大陸と台湾は直接交流することはなく、香港が長らく両岸交流の舞台となっていた。ただし交流といっても、企業や肉親と対面する大陸出身者たちが中心で、多くの台湾人にとって香港は近くて遠い存在だった。
私が特派員として暮らしていた英国領香港は、虚実を定めるのが難しい「中国大陸情報」があふれ、台湾当局をはじめ各国は情報収集につとめていた。中国への香港返還が決まり、共産党の影響力が陰に陽に強まるなかでも、中華民国旗「青天白日満地紅旗」が掲げられ、台湾メディアの取材も活発だった。
それが、1997年の香港返還が近付くにつれて、台湾は新しい「中華人民共和国香港特別行政区」との付き合い方を模索せざるを得なくなった。台湾の中華航空は機体尾翼に描いていた青天白日満地紅旗を梅の花に変えた。台湾紙聯合報は香港での発行を取りやめた。同紙の記者は「自由な報道ができなくなるからだ」と言っていた。
台湾でも、香港返還を祝う人は大陸出身者を中心に少なからずいた。しかし、「香港は主(あるじ)が英国から共産党にかわっただけ、と思う台湾人が多かった」(知人の教授)。香港には言論の自由はあっても、台湾のような自由な選挙はなく、リーダーを民主的に選ぶ仕組みが整備されなかったからだ。
これに対し、台湾はトップの総統から村長まで、すべて直接選挙で選ぶまでに民主主義が成長した。私の長年の友人である元高級官僚は「台湾人は自らの民主主義を誇る一方で、香港人は金もうけばかりと馬鹿にしていた」と話す。
そんな台湾人の“上から目線”を、香港の若者が「雨傘運動」を通じて変えたというのが、友人の元官僚ら台湾の大人の見立てである。
雨傘運動をおさらいする。2017年3月の香港行政長官選挙から民主派候補者を事実上排除する制度を、中国の全国人民代表大会(全人代)常務委員会が決めたことに反発した若者らが、14年に大規模な街頭占拠デモをした。運動は敗北したが、民主化運動の火は消えず、今に続いている。ちなみに、雨傘は警察の放つ催涙ガスから身を守るために使われた。
雨傘運動から現在の民主化デモまで、中心にいるのは香港返還の前後に生れた若者たちだ。英国統治を実体験したこともなければ、親より上の世代にある大陸への親近感もない「新香港人」だ。
一方、雨傘運動と同じ14年、当時の台湾の与党だった国民党が台湾海峡両岸間でサービス業を開放しあう貿易協定を強行採決しようとしたことに反発した学生らが、議会の立法院に突入して23日間占拠。審議のやり直しを勝ち取った。議場に飾られたひまわりの花がシンボルとなり「ひまわり学生運動」と呼ばれる。こちらの運動も、国民党独裁や血の流れた民主化闘争を知らない若者が主役だった。