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小沢一郎「細川政権があと1年続いていれば…」

(19)1993年、非自民連立政権樹立の舞台裏

佐藤章 ジャーナリスト 元朝日新聞記者 五月書房新社編集委員会委員長

自民党下野、細川政権誕生

 保守合同のあった1955年以来38年間続いた自民党一党支配体制が初めて崩れる日がやって来た。

 その日は日本政治に関わる様々な人々の決断が何重にも積み重なった末に到来したものだったが、中でも二人の政治家の決断が決定的に重要だった。

 ひとりは非自民連立政権の首相となった細川護煕。

 もうひとりは、その政権の構想を描いて実現させた小沢一郎だった。

 政治改革に対する姿勢が消極的な宮沢喜一内閣に対する不信任案が成立したことを受けて衆院解散。1993年7月18日、総選挙を迎えた。その結果、自民党は223議席で、自民系無所属を加えても過半数には届かなかったが第一党の地位を保った。

 自民党とともに「55年体制」を支えてきた社会党はひとり大敗して、解散前の134議席から70議席へ減少。自民党から飛び出した小沢らの新生党は55議席、同じ自民党からの離党組、武村正義らの新党さきがけは13議席を獲得。細川らの日本新党は35議席を得た。

 この結果を受けて自民党には安堵の空気が流れ、政権奪取を目指した野党側には失望の声が挙がった。日本新党と新党さきがけが自民党と連立政権を組むだろうという予測が一般的だったからだ。

 しかし、この明暗の色合いをオセロゲームのようにひっくり返した人間がいた。

 小沢は選挙結果を踏まえた新たな政界地図を見渡し、野党や労働組合の幹部を励ました。小沢は決断と行動次第では「勝てる」と見通した。そのためには非自民の連立政権首班を考え抜き、説得しなければならなかった。

 小沢の敏速な行動の放った矢は的を射た。小沢の決意に細川護煕が応え、清新な細川内閣の顔ぶれに日本社会は爽やかな気に包まれた。この時、自民党側でも細川にアプローチする話が出ていたが、決断の早さで小沢に及ばなかった。

 細川連立内閣は1993年8月9日に成立し、翌94年4月25日に総辞職した。この間、小沢が執念を燃やしていた政治改革法案を成立させ、小選挙区比例代表並立制や政党助成金などの制度を導入した。

 しかし、政治改革法案成立直後に税率7%の国民福祉税創設を発表して世論の大きい批判を浴び、翌日この創設構想を取り消した。

 その後、細川が佐川急便から1億円借り入れていた問題が表面化。佐川急便は当時、竹下登内閣誕生の際の「褒め殺し事件」の関連で暴力団との関係が公然となり、社会的なイメージが最悪の状態だった。細川はこの借金をすでに返済し何の問題もなくなっていたが、細川自身は辞任の道を選んだ。

 初めて自民党政権を倒した細川内閣を作り、中心地点から政権の動きを目撃し続けた小沢の目に「9か月」はどう映ったのか。

8党派首脳会談に先立ち、ポーズをとる左から江田五月・社民連、大内啓伍・民社、石田幸四郎・公明、山花貞夫・社会、羽田孜・新生、細川護熙・日本新党、武村正義・新党さきがけ、星川保松民主改革連合の各氏ら=1993年7月29日、東京・永田町のホテルで

「細川総理」は当然の帰結だった

――1993年7月の総選挙の結果、野党の中心である社会党がひとり惨敗してしまって野党全体がシュンとなりましたね。その翌々日ぐらいに小沢さんが声をかけて、社会党の田邊誠委員長、公明党の市川雄一書記長、民社党の米沢隆書記長の4人が集まりました。みんな暗い顔をしている中で小沢さんが一喝されるわけですね。

小沢 はい。選挙で負けたようなことをみんな言ってるけど、それはおかしいんじゃないか。自分たちの議席を足してみれば自民党を上回っているではないかと言いました。それでみんな「おお、そうだそうだ」と思い始めたんです。

――そうですか。なるほど。

小沢 山岸(章連合会長)さんもすっかりしょげかえっていたんですが、改めて会って励ましたんです。それで山岸さんも元気になってまた社会党を叱咤激励し始めたんですね。あれは面白かったね。ドラマだったね。

――まさにドラマですね。そこでお聞きしたいんですが、内閣の首班に細川さんを据えようというのはどういう風に考え抜かれた結果だったのですか。

小沢 別にどうということはない。ぼくの考えからすれば当然の帰結なんです。まず、社会党では誰もウンと言わないでしょう。また、ぼくが羽田(孜)さんと言えばみんな反発するでしょう。公明党首班ということはありえないし、民社党はちょっと小さい。そういう風に考えれば、日本新党の細川さんしか選択肢はないんです。

 細川護煕は朝日新聞記者から参議院議員に転身し、熊本県知事を経て、1992年に日本新党を結成。93年の総選挙で衆議院に鞍替えし、細川連立内閣の首班に就いた。

――細川さんであれば国民の人気も集めるのではないか、という読みもあったのですか。

小沢 もちろんそれもあったけど、一番大きい理由は、8会派をまとめるには細川さんしかないという判断ですよ。細川さんは参議院議員をやってすぐに熊本県知事になったから、国政の場に敵もいないんですよ。しかし、あの時は本当に面白かったね。誰も細川さんが首相なんて思っていなかったからね。

――関係者がそれぞれ当時のことを回顧しているのですが、細川内閣の官房長官だった武村正義さんは、小沢さんが細川さんに首班候補に就いてもらう依頼をした7月22日の朝のことをこんな感じで回想しています(『聞き書 武村正義回顧録』岩波書店)。

総理をやっていただきたいという小沢さんの依頼を承諾した細川さんは、その後武村さんを東京プリンスホテルに呼び、話し合った。その上で小沢さんに会っていただきたいという細川さんの頼みを受けて、武村さんはその日のうちに全日空ホテルに小沢さんを訪ねた。部屋に入るなり、武村さんは「今朝の話はなかったことにしてください」と言ったが、小沢さんは武村さんの顔をじっと見て、「細川さんが駄目なら、武村さんでもいいんだよ」と言った。

 こんな風なあらすじの回想なのですが、こういう会話はあったのですか。

小沢 そんなことは言わない。言いっこありません。武村さんでは誰も認めなかったでしょう。あの時、細川さん以外の人を思い浮かべるわけがない。武村さんでいいんだったら、ぼくは羽田孜さんをやったでしょう。自民党から出た人間ではだめだと思うから細川さんにしたのに。

「武村さんは官房長官に執着していた」

 武村正義は30代で八日市(現・東近江市)市長に当選、以後滋賀県知事を3期務め、1986年に衆院議員に転身。自民党内で田中秀征や鳩山由紀夫らと政策集団を作り、それを母体にして「新党さきがけ」を結成、自民党を離党した。知事時代から同じ知事仲間の細川護煕とは親しく、非自民連立政権を作る時にはほとんど同一行動を取っていた。細川内閣では官房長官を務めたが、小沢との対立関係が日を追って増してきた。

――続いて武村さんの回想では、小沢さんは「とにかくこういう時期の首相は色のついた人ではだめで、フレッシュな人、新しい人がいいんだ」と発言しました。このために武村さんもすぐにピンと来て、小沢さんの政治感覚の鋭さを評価した、ということをおっしゃっています。

小沢 そういう意味のことは言ったかもしれません。

――細川内閣を組閣する時に、小沢さんは武村さんのポストについて内閣官房長官を最初から考えていたのですか。

小沢 いや、それは武村さんが望んだんだと思います。ぼくは、武村さんについては他の重要ポストでというようなことを細川さんと話し合った記憶があります。

――武村さんは回顧録の中で後から推測しているのですが、もしかすると、小沢さんは、政治改革担当大臣を武村さんにというように考えていたことはありますか。

小沢 そう考えていたかもしれない。あるいは、重要ポストと言えば大蔵大臣となるが、その政治改革の担当も考えていたかもしれない。

――なるほど。武村さんを政治改革担当大臣にして、官房長官を熊谷弘さんにというように考えていたのですか。

小沢 いや、その時は熊谷さんとは考えていません。

――しかし、政治改革担当大臣というのは相当重要なポストですよね。武村さんに対する期待が大きかったのですか。

小沢 そうかもしれない。それもあったかもしれません。だけど、ぼくは官房長官とは言っていません。細川さんの方から言ってきたと思います。

――細川さんの回顧録というか、当時の日記を再編集した著書(『内訟録 細川護煕総理大臣日記』日本経済新聞出版社)によれば、組閣作業中の8月7日、「武村が官房長官」と新聞に大きく報じられ、小沢さんが怒りを露わにしたとあります。覚えていますか。

小沢 覚えていないけど、そうだったかもしれない。あれは武村さんのリークだったんじゃないか。

――同じ著書によれば、その中で細川さんと田中秀征さんがそう言っています。

小沢 そうでしょう。

――田中さんの回想では、「しゃべって公にした方が後戻りできなくなるのでいい」というのが武村さんの考えだったようです。既成事実化しないと小沢さんにひっくり返されるかもしれないという危機感があった、と田中さんは解説していますね。

小沢 そうでしょう。だから、武村さんが官房長官にいかに執着していたかということです。

佐川急便グループからの1億円借り入れ問題などの疑惑で細川護熙首相が辞意を表明した。後継首相選出をめぐって連立与党が混迷する中、定例の記者会見をする武村正義官房長官(さきがけ党首)=1994年4月14日、首相官邸

ーー武村さんに対する不信感というのは、このあたりから始まるわけですか。

小沢 そうかもしれない。自己顕示欲のものすごく強い人だったと思います。

ーー武村さんは、官房長官であると同時に新党さきがけの党首でもあり、そちらの方の立場も考えなければならなかったというように説明していますね。

小沢 それがおかしい。政府の一員になったら行動や言動はあくまで政府の一員でなければならないでしょう。

「ぼくの頭にあったのは消費税より政治改革だった」

 内閣官房長官はその内閣のスポークスマンの役割を担い、週に二度記者会見を開くなど、内閣の中で最も目立つ役どころだ。その官房長官を務めながら新党さきがけの党首の立場を意識していた武村の言動はしばしば内閣の方針とずれた。そのことについては武村も回顧録の中で率直に認め、具体的な事例についても触れている。
 例えば小選挙区比例代表並立制の投票方式を1票制にするか2票制にするか、与党間でまだ議論していない段階で武村は2票制と答えてしまった。小沢は実は1票制を考えていたため大変な軋轢のタネとなった。
 また武村は橋本龍太郎や三塚博、塩川正十郎など自民党の要人と個人的に親しく、与党内の重要情報が武村を通じて自民党側に漏れてしまうのではないか、と心配されていた。
 細川連立政権が迎えた1993年の秋から冬にかけては、米国から要求のあった大幅減税や政治改革法案の行方、次年度予算編成の越年問題など大きい政治課題が山脈のように連なっていた。その中で、小沢と武村の疑心暗鬼はピークを迎え、ある元政治家の訃報が流れたその日、決定的な亀裂が入った。

ーー1993年12月16日、田中角栄さんが亡くなって、細川さんも田中さんの自宅に弔問に出かけました。細川さんのこの日の日記によると、公邸に戻った細川さんの許へ小沢さんが訪ねて来て、かなりの見幕で「武村さんが政権内にいること自体が問題だ。自民党に通じている武村さんがいれば政治改革もだめになると判断せざるをえない。武村さんを切らなければならない」という意味合いのことを言ったと書いてありますが、これは覚えていますか。

小沢 詳しくは覚えていないけど、実態はそうだったと思います。武村さんはぼくを敵とすることで自分の存在を位置づけようとしていましたね。だけど、そんなことはしょっちゅうだった。性格的なものにもよるけど、武村さんは内閣官房長官の立場があるのに国会のことをしゃべったり、余計なことをべらべらとしゃべるんです。官房長官としての「いろは」がわかっていなかった。ぼくだけでなく、みんな怒っていました。

ーーなるほど。それでは、94年2月の国民福祉税騒動にいたる重要なところをお聞きします。
 細川さんの日記では93年の10月9日に、当時の斎藤次郎大蔵次官と熊野英昭通産次官が細川さんのところに一緒に説明にまいります。この時の斎藤さんの説明では「所得税5兆円、住民税2~3兆円、合わせて7兆円から8兆円の減税をやり、消費税を5~6%にする」ということでした。そして、翌日の10月10日に小沢さんが公邸に来て、昼の2時間は蕎麦を食べながら政治改革法案のことなどを内談したということです。
 お二人の間では「政治改革法案は原案通りやる。そうすれば法案が衆院を通過した時点から政界再編に向けて一気に進むだろう。連立与党はそれぞれ解党し、自民党からの離脱者も加えて新党を結成する。選挙区別候補者の調整も速やかに始めなければならない」という趣旨のことを話し合ったとのことです。これは相当の見通しを持った話し合いだと思いますが、ご記憶はどうですか。

小沢 そういう話はしたかもしれないけど、正確には記憶していない。

ーー私が何を聞きたいかと言うと、小沢さんが当時どういうシナリオを描いていたのかということです。斎藤大蔵次官の狙い、見方を考えると、まずはアメリカから減税要求があるわけですから、消費税を増税して増減税一体の税制改革を予算編成と同時にやりたい。だけど、年内に予算編成したのでは減税だけ先食いされて消費増税が実現しない恐れもあるので、あえて予算編成を越年させて全部一体でやる。たぶん、斎藤さんは、政治改革は最優先にして結構だが、予算編成を越年させて増減税を一体でやらせてほしいと考えていたのではないかと思います。
 一方、小沢さんの方は当然ながら政治改革を最優先にする。しかし、斎藤さんの考えていることも理解できるし、大蔵省は非常に強い政治力を持っているので、予算は越年させて、消費税増税というか国民福祉税の創設を認める。こういうような政治改革と増減税のセットを構想していたのではないでしょうか。

小沢 わからない。忘れた。その時は、ぼくの頭にあったのは消費税よりも選挙制度だったから。あの選挙制度も年をまたいだでしょう。

ーーまたぎました。

細川護煕首相の辞意表明を受け、後継首相候補の人選をめぐり開かれた連立与党代表者会議。久保亘・社会党書記長(左)と小沢一郎・新生党代表幹事、中央は鳩山由紀夫官房副長官=1994年4月11日、東京・永田町

「細川政権が2年続いていたら自民党は崩壊した」

 細川内閣が命運をかけた政治改革法案は1993年11月18日に衆院を通過したが、翌94年1月21日に参院で否決されてしまった。同28日に細川首相と自民党の河野洋平総裁がトップ会談を開き、定数を小選挙区300、比例代表200とすることなどで合意、翌29日に衆参両院でようやく可決した。細川首相が深夜に記者会見を開き、7%の国民福祉税構想を発表したのは5日後の2月3日だった。

小沢 そうでしょう。だから、ぼくが考えていたのは消費税なんていうよりも選挙制度だったね。それで、斎藤次官がその政治状況を見てそういう風に考えたのかどうかはわかりません。

ーー斎藤さんから小沢さんに相談はなかったのですか。

小沢 どうだったかな。やはり、そんなことを言う状況じゃなかったと思います。あの当時は選挙制度がどうなるかという話の方が大変だったんじゃないかな。

ーー国民福祉税構想は2月3日の深夜に細川さんが会見を開いて発表するのですが、小沢さんはこの構想についていつごろ知りましたか。

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