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小沢一郎「細川政権があと1年続いていれば…」

(19)1993年、非自民連立政権樹立の舞台裏

佐藤章 ジャーナリスト 元朝日新聞記者 五月書房新社編集委員会委員長

「細川総理」は当然の帰結だった

――1993年7月の総選挙の結果、野党の中心である社会党がひとり惨敗してしまって野党全体がシュンとなりましたね。その翌々日ぐらいに小沢さんが声をかけて、社会党の田邊誠委員長、公明党の市川雄一書記長、民社党の米沢隆書記長の4人が集まりました。みんな暗い顔をしている中で小沢さんが一喝されるわけですね。

小沢 はい。選挙で負けたようなことをみんな言ってるけど、それはおかしいんじゃないか。自分たちの議席を足してみれば自民党を上回っているではないかと言いました。それでみんな「おお、そうだそうだ」と思い始めたんです。

――そうですか。なるほど。

小沢 山岸(章連合会長)さんもすっかりしょげかえっていたんですが、改めて会って励ましたんです。それで山岸さんも元気になってまた社会党を叱咤激励し始めたんですね。あれは面白かったね。ドラマだったね。

――まさにドラマですね。そこでお聞きしたいんですが、内閣の首班に細川さんを据えようというのはどういう風に考え抜かれた結果だったのですか。

小沢 別にどうということはない。ぼくの考えからすれば当然の帰結なんです。まず、社会党では誰もウンと言わないでしょう。また、ぼくが羽田(孜)さんと言えばみんな反発するでしょう。公明党首班ということはありえないし、民社党はちょっと小さい。そういう風に考えれば、日本新党の細川さんしか選択肢はないんです。

 細川護煕は朝日新聞記者から参議院議員に転身し、熊本県知事を経て、1992年に日本新党を結成。93年の総選挙で衆議院に鞍替えし、細川連立内閣の首班に就いた。

――細川さんであれば国民の人気も集めるのではないか、という読みもあったのですか。

小沢 もちろんそれもあったけど、一番大きい理由は、8会派をまとめるには細川さんしかないという判断ですよ。細川さんは参議院議員をやってすぐに熊本県知事になったから、国政の場に敵もいないんですよ。しかし、あの時は本当に面白かったね。誰も細川さんが首相なんて思っていなかったからね。

――関係者がそれぞれ当時のことを回顧しているのですが、細川内閣の官房長官だった武村正義さんは、小沢さんが細川さんに首班候補に就いてもらう依頼をした7月22日の朝のことをこんな感じで回想しています(『聞き書 武村正義回顧録』岩波書店)。

総理をやっていただきたいという小沢さんの依頼を承諾した細川さんは、その後武村さんを東京プリンスホテルに呼び、話し合った。その上で小沢さんに会っていただきたいという細川さんの頼みを受けて、武村さんはその日のうちに全日空ホテルに小沢さんを訪ねた。部屋に入るなり、武村さんは「今朝の話はなかったことにしてください」と言ったが、小沢さんは武村さんの顔をじっと見て、「細川さんが駄目なら、武村さんでもいいんだよ」と言った。

 こんな風なあらすじの回想なのですが、こういう会話はあったのですか。

小沢 そんなことは言わない。言いっこありません。武村さんでは誰も認めなかったでしょう。あの時、細川さん以外の人を思い浮かべるわけがない。武村さんでいいんだったら、ぼくは羽田孜さんをやったでしょう。自民党から出た人間ではだめだと思うから細川さんにしたのに。

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筆者

佐藤章

佐藤章(さとう・あきら) ジャーナリスト 元朝日新聞記者 五月書房新社編集委員会委員長

ジャーナリスト学校主任研究員を最後に朝日新聞社を退職。朝日新聞社では、東京・大阪経済部、AERA編集部、週刊朝日編集部など。退職後、慶應義塾大学非常勤講師(ジャーナリズム専攻)、五月書房新社取締役・編集委員会委員長。著書に『ドキュメント金融破綻』(岩波書店)、『関西国際空港』(中公新書)、『ドストエフスキーの黙示録』(朝日新聞社)など多数。共著に『新聞と戦争』(朝日新聞社)、『圧倒的! リベラリズム宣言』(五月書房新社)など。

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