伊東順子(いとう・じゅんこ) フリーライター・翻訳業
愛知県豊橋市生まれ。1990年に渡韓。著書に『韓国 現地からの報告――セウォル号事件から文在寅政権まで』(ちくま新書)、『もう日本を気にしなくなった韓国人』(洋泉社新書y)、『ピビンバの国の女性たち』(講談社文庫)等。
10月の初め、下関の大学の行事に招かれたついでに、初めて関釜フェリーに乗った。
「え、乗ったことなかったのですか? 一番歴史が古い日韓航路なのに。信じられません」
確かに。この30年あまり幾度となく日韓を往復し、飛行機だけなくフェリーも大阪港や博多港から何度も乗ったのに、なぜか下関港だけは利用したことがなかった。
「ぜひ、乗ってくださいよ。釜山はすぐそこです」
地元の人々の強力な推しで、「じゃあ」とすぐその気になった。船舶会社に電話して「当日なんですが、席はありますか」と聞いたら、「大丈夫だから18時半までに来てください」と言う。念のために乗船開始時間を聞いたら、18時半だという。ならば、もっと早く行かなければだめでしょう、と、その時までは思っていた。フェリー乗り場のカオスを記憶していたからだ。
最後にフェリーに乗ったのは、1990年代の終わりだった。仁川から中国の威海に向かう船。乗船場は大勢の人と大量の荷物であふれかえっていた。まだ乗船開始時刻まで1時間もあるというのに、搭乗口には手続きを終えた人々の長い行列ができ、怒号が飛び交っていた。「一列に並んでください。割り込みはしないでください」と、係員たちは声をからして叫んでいた。
指定席なのにどうして並ぶの?という謎は、乗船してすぐに解けた。定員500名以上の大型客船の甲板は荷物の山。ダンボール、風呂敷、キャスター付きバッグで、まさに足の踏み場もない。中には、すでにブルーシートを広げて唐辛子を干している人もいた。
韓国語では「ポッタリ」(風呂敷包という意味)、日本語では「担ぎ屋」というのだろうか。フェリーの利用客の多くは一般観光客ではなく、2国間を行き来して商いをする人たちだった。家電製品から農産物まで、皆その荷物置き場を確保するために我先を争って船に乗り込もうとしていたのだ。
この時、私が乗ったのは中韓航路だったが、同じ頃に友人を見送った釜山港も同じだった。段ボールを持った中高年女性たちの熱気を前に怖気づく友人を、「荷物がない人は最後に乗れば大丈夫だから」と励ました。その船の行き先は下関、すなわち関釜フェリーだった。
あれからちょうど20年、関釜フェリーはどうなっているのか?
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