「文化の日」を「明治の日」に変更する自民党有志の改正案が意味するもの
2019年11月02日
「憲法の誕生日といえば、何月何日?」
大学の憲法の授業の初回で、そのように問いかけることがある。
スライドで、バースデーケーキの絵を出す。「5月3日」と答える学生がちらほら。そこでにんまり笑って、答える。
「5月3日は、憲法が歩きだした日。施行された日なんです」
スライドは、赤ん坊がよちよち歩きをしている絵に変わる。
「では、憲法の誕生日は?」
ここで授業では、DVDに収められた1946年11月3日、第90回帝国議会における天皇の「日本国憲法公布」の映像を出す。
このとき昭和天皇が読み上げた言葉がある。
「朕は、国民とともに、自由と平和とを愛する文化国家を建設するように努めたいと思う」
主権者の地位を降りて「人間」となった天皇が、日本国および日本国民の「象徴」として憲法に定められた「国事行為」を行った、最初の場面である。
ここでもう一歩、踏み込んで尋ねてみる。
「11月3日は、憲法の誕生日と同時に、もう一人、誰かの誕生日です。誰だと思います?」
これに答えられた学生は、これまでいない。
答は明治天皇である。
今、「文化の日」という名前で親しまれている祝日は、戦前は「明治節」と呼ばれ、明治天皇の誕生日を祝うものだった。これが昭和23年に「文化の日」と改称されたことで、「明治」の名は姿を消した。
その経緯をざっと見てみると、次のようになる。
明治維新後の日本の祝祭日は、皇室や神道を踏まえて定められたものだった。代表的なものは以下の4つである。
四方節:1月1日(現在の元旦)
紀元節:2月11日(初代天皇である神武天皇の即位日、現在の「建国記念の日」)
明治節:11月3日(明治天皇の誕生日、現在の「文化の日」)
天長節:その時代における天皇の誕生日
戦後、日本を占領統治していた連合国軍総司令部(GHQ)は、日本に対してこれらの改廃を勧告した。
1946年11月3日に日本国憲法が公布され、翌年の1947年5月3日に施行された。この施行日が国民の祝日として「憲法記念日」と定められた。
その後1948年の7月20日に公布・施行された祝日法(国民の祝日に関する法律)によって、11月3日が正式に「文化の日」と定められ、その意義は「自由と平和を愛し、文化をすすめる日」とされたのである。
この祝日の名称を変えようという動きが、昨年の暮れから起きている。
自民党有志議員による「明治の日を実現するための議員連盟」が、11月3日の「文化の日」を「明治の日」に改称する祝日法改正案の原案をまとめたことが報じられた(産経新聞2018年12月13日)。
また今年10月末には、この法案に賛同する市民団体がこの議員連盟宛に、百万人超の賛同署名を手渡した(福井新聞2019年10月30日、東京新聞2019年10月31日)。
たしかに1948年当時、祝日の名称の変更は、形式的にはGHQの強い働きかけを受けたものだ。この点をとらえて、日本が主権を失っている間に改称を迫られたこと、明治時代の人々が国民として団結したことの意味合いが見失われたと嘆く論もある(産経新聞2018年11月3日、同年12月13日)。
これは「押し付け憲法論」と同じ路線にある認識といえるだろう。
それをいうならば、この時期、勧告よりももっと露骨な強制があった。治安維持法を廃止させ、特高警察を解散させ、戦前に拘束されたまま戦後も拘束中となっていた政治犯を即時釈放させる「自由の指令」がGHQによって発令されたのだ。これは形式的には「押し付け」以外の何ものでもない。
しかし私たちは、外国からの押し付けだったという手続きの側面だけを見て、この指令をリセットし、このとき強制的に廃止されたものを復活させたいと思うだろうか。
日本が民主的な自浄能力を完全に失っていたこの時期、これをやらねば前へ進めない、という事柄がいくつもあったことは否めない。
戦後、日本社会は比較的秩序を守り、混乱は少なかったとされているが、何が守るべき価値か、という内面の規範については、想像がつかないほどの混乱があったに違いない。
その中で、つい昨日まで「現人神」として国民を統合していた天皇が、形式的行為とはいえ、「自由、平和、文化国家」という言葉で「ともに、努めたい」とする方角を示したことの意味は大きい。
より内実のところをみれば、この「文化」という名称は当時の日本人の切実な願いを背負ったものでもある。
現在では、第90回帝国議会のもとで開催された委員会の記録などが国立国会図書館を通じて公開されている(日本国憲法の誕生 - 国立国会図書館)。
ここでの議員たちの発言は、憲法草案をめぐるGHQとの交渉の段階で幣原喜重郎首相が示していた戦争放棄の内容を肯定的に受けて、それを「もっと積極的に」「高らかに世界に宣言」しようとの熱意から発せられている。
軍事国家を脱却して平和国家へ、全体主義国家を脱却して民主的国家へ、という決断が共有されていたのである。
憲法は「妥協の束」ともいわれる。これはアメリカ合衆国憲法についてよくいわれる言葉だが、日本国憲法についても当てはまる。多くの考えが錯綜する中で、国をまずは平定することを優先事項として、各種の譲歩や妥協が行われることは避けられない。
その中で、明確な表現を避けながら過去との決別を埋め込んだといえる言葉が、日本国憲法の中にはいくつもある。英語でいう「not-but構文」が、憲法の随所に仕組まれているのである。
その最たるものが第1条である。
この条文を隠されたnot-but 構文で読むと、こうなる。
・天皇は(主権者ではなく)象徴になった。
・主権者は(天皇ではなく)国民になった。
・天皇の地位の正統性の根拠は(もはや血統や国教ではなく)主権者たる国民の総意に基づくものとなった。
同じように、「文化の日」にも、日本を「(軍事国家ではなく)文化国家にしていこう」という not-but 構文、この日を「(宗教に基づく天皇ゆかりの祝日ではなく)国民が文化に親しむ祝日にしよう」という not-but 構文が込められている。
この祝日の名称を「明治の日」とする法案の原案では、この名称の意義を「近代化を果たした明治以降を顧み、自由と平和を愛し、文化をすすめ、未来を切り拓(ひら)く」と記している(産経新聞2018年12月13日)。
しかし、発案者が明治時代の国民群像を念頭に置いていると理解したとしても、「明治」という言葉を復活させることは、客観的な文脈から明治憲法、明治天皇を想起させずにはおかない。
「自由と平和を愛し、文化をすすめ」るという意義は変わらないとするならば、わざわざ名称変更をする必要はない。変更する、ということは、変更前の何かを否定して、「それではなくこれ」(not-but)ということを意味せずにはおかない。法律(憲法を含む)の改正と同じである。
そうすると、その社会的な含意は、おのずと決まってきてしまう。1946年11月3日に、当時の日本国民の象徴によって国事行為として語られた、「自由と平和とを愛する文化国家」という理念の重みが、葬られてしまうことになるのである。
これとともに、そこにこめられたnot-butの決断も忘れられていくことになるだろう。
日本国憲法のもとでの天皇は「象徴」であって政治的決定はおこなわず、その行為と行事は内閣の助言と承認に基づく。そういうものとして発声された、この「文化国家」という言葉に法的意味はない。したがって、国民の意思によって祝日法を改正し、この言葉をリセットするということになれば、それを止めるべき(憲)法的なルールはとくにない。
しかし、だからこそ、「それでいいのだろうか」と国民自身が問う機会にしてはどうだろうか。
明治時代へのノスタルジーは、多くの人の心にあるに違いない。筆者も、明治時代を描いたドラマで好きなものはたくさんある。
しかし、そのノスタルジーをもって、ある時期に行われた重大な決断を表す言葉をリセットしてしまってよいのかどうか。
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