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緒方貞子さんに聞いた20年前の忘れられない言葉

援助とは困っている人の傍らに行って助けること。札束で顔を引っ叩くことではない

山口 昌子 在仏ジャーナリスト

「見事な人材」と驚愕した記者会見

拡大国連総会で国連難民高等弁務官に選出され、記者会見する緒方貞子さん。任期は翌年1月から=1990年12月22日、東京・霞が関の外務省
 それまで「名前を聞いたことがある」程度の認識だった緒方さんに初めて会ったのは1992年3月、パリ市内での記者会見でだ。91年1月に国連難民高等弁務官になって1年あまり、緒方さんの活躍ぶりが国際社会、おもに欧州で知られ始めていた。

 いま思うと、緒方さんの就任は実に時宜を得ていた。別の言い方をすれば、名誉や名声とは無関係に、熱意と誠実さだけを武器に難民支援という難行に取り組む緒方さんのような人材を得たことは、歴史の僥倖(ぎょうこう)であった。

 冷戦が終了し、それまで米ソの巨大な力の下に閉じ込めれていた少数民族紛争が一気に噴出。それに伴い、難民が急増した頃だ。少数民族紛争とは、言い換えれば一種の宗教戦争だ(それが、イスラム教過激派の「イスラム国」(IS)という狂気のテロ集団をも生み出した)。それだけに「血で血を洗う」というほどに酸鼻を極めた。

 そんな状況に真っ向から取り組む緒方さんとはどんな人か?会見を前に、興味が高まっていた。

 緒方さんは、地元のフランス人記者をはじめ、米英独日などパリ在住の各国特派員を前に、英語の質問には英語、仏語の質問には仏語で答えたが、その語学力以上に、「すごい人だな」と感じ入ったのは、その過不足ない見事な応答ぶりだった。何の衒(てら)いも気負いもなく、一見淡々と、ごく自然な態度だが、極めて説得力を持った回答に、並みいる記者たちも感じ入っていた。日本女性、というより日本人にこういう「見事な人材」がいるのかと驚愕、そして賛嘆した。

 はっきり言って、そこらあたりの政治家や外交官などは足元にも及ばない人材。それが緒方さんの第一印象だった。一度、ゆっくり取材したいと強く思った。

上がる一方の「マダム・オカダ」の知名度

拡大ルワンダ緊急支援での各国の支援状況について語る緒方貞子・国連難民高等弁務官= 1994年8月22日、東京・日比谷の日本プレスセンターで
 その後、欧州における「マダム・オガタ」の知名度は上がる一方だった。92年7月末には、旧ユーゴ紛争(ボスニア紛争)による難民問題を協議するため、UNHCRが「国際難民会議」を開催、緒方さんは「人道的攻撃を行おう」と難民救済の重要性を訴えた。ただ、この時はUNHCRが170カ国以上に招待状を出したにもかかわらず、出席したのは紛争当事者の旧ユーゴの各共和国と、影響の大きい欧州など約50カ国にとどまった。

 ちなみに、ボスニア紛争は同年6月で1年を経過し、セルビア人中心の旧連邦軍の攻撃でクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナからの難民は230~250万人に増加。旧ユーゴ全体の、なんと10人に1人が難民という状態だった。内戦による人心の荒廃で、民族問題とは無関係の略奪や暴行も横行していた。旧ユーゴ内ではクロアチアに流出している難民が最大で70万人、約40万人がドイツへの20万を筆頭に、欧州各国に逃れている状況だった。冬までに、さらに約100万人が難民になるという試算もあった。

 1994年7月にはルワンダでフツ族とツチ族の対立が悪化。フランス政府の要請で、国連安保理が、ルワンダ内戦の即時停戦と停戦監視・難民支援のための兵員提供を各国に呼びかける声明を発表するなか、UNHCRが難民受け入れ国のリストアップを開始するなど、「マダム・オガタ」の活躍ぶりが連日、報じられた。

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筆者

山口 昌子

山口 昌子(やまぐち しょうこ) 在仏ジャーナリスト

元新聞社パリ支局長。1994年度のボーン上田記念国際記者賞受賞。著書に『大統領府から読むフランス300年史』『パリの福澤諭吉』『ココ・シャネルの真実』『ドゴールのいるフランス』『フランス人の不思議な頭の中』『原発大国フランスからの警告』『フランス流テロとの戦い方』など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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