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中島岳志の「野党を読む」(4)馬淵澄夫

山本太郎より先に消費税減税を訴えていた馬淵氏。野党再編のキーマンに急浮上した

中島岳志 東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授

山本太郎と「消費税減税研究会」を旗揚げ

 10月30日、「消費税減税研究会」の初会合が開かれました。

 この研究会を立ち上げたのは馬淵澄夫さんと山本太郎さん。消費税5%への減税を検討する勉強会で、現職国会議員のほか、馬淵さんが率いる落選議員らの勉強会「一丸の会」のメンバーの多くが参加しました。

 7月の参議院選挙で躍進したれいわ新選組は、消費税廃止を看板政策に掲げ、2議席を獲得しました。代表の山本さんは、消費税廃止・減税を訴える政治家の代表格と見なされていますが、彼よりも先に消費税減税を説いていた政治家が馬淵さんです。

 2017年10月18日には「消費税引き下げの検討」という論文を発表しています。ここで馬淵さんは「日本経済を成長軌道に乗せ、デフレを脱却するためには、今こそ、その障害となっている消費税の引き下げを行うべきではないか」と問いかけています。

 消費税を増税すると、その影響は「低所得者層や中小企業、零細企業、さらにはそれらに勤める勤労者やその家計に集中」します。格差社会が深刻化し、貧困が拡大する中、「個人消費を回復させ、景気を回復路線に乗せて物価を着実に上昇させるためには、消費税の8%への据え置きだけではなく、むしろ5%への引き下げが必要」。これが馬淵さんの強い主張です。

 問題は財源です。

 馬淵さんが提起する代替税源の中核をなすのは「所得税の社会保障料控除の見直し」と「金融所得の課税強化」です。これに加えて「デフレ脱却による金融所得の課税の機能回復」や「予算の精査」「不要な国の事業の見直し」が挙げられます。

 算出根拠などの詳細は、ネット上に公開されている論文を読んでいただければと思いますが、「所得税の社会保障料控除の見直し」で約2.2兆円、「金融所得の5%アップ」で約1兆円、「予算の無駄積みの排除」で約2兆円、「不要な国の事業の見直し」で数千億円、合わせると6兆円近い財源を確保できると言います。これによって消費税3%分の財源を確保することができ、「消費税5%への減税」が可能であると説きます。

 馬淵さんの議論の根本にあるのは、格差是正と再配分の強化です。「高所得層の負担を引き上げ、代わりに逆進性の高い消費税を引き下げることで、中間層から低所得層の消費を喚起する再分配政策を行うべき」というのが一貫した主張です。

 この考え方が、山本太郎さんと呼応し、勉強会の立ち上げに至ったのでしょう。

「消費税減税研究会」の初会合で握手する無所属の馬淵澄夫・元国土交通相(右)とれいわ新選組の山本太郎代表=2019年10月30日、国会

 馬淵さん曰く「やはり、国民からすれば『懐がどうなるか?』という経済政策が最大の関心事であ」り、アベノミクス最大の失敗は、消費税の増税である。この急所を突き、消費税の減税を掲げることこそが「野党が打ち出す、絶好の争点」である――。そう訴えていました。もう1年前のことです。(「消費税率の引き下げ検討を 自民は争点にできず」毎日新聞・政治プレミア、2018年10月2日

 「消費税減税研究会」は、今後の野党連携に大きな影響を与えるでしょう。消費税減税という政策には、経済の活性化による貧困問題の解決という重要なテーゼがあります。野党が政権奪取を賭けて、与党に挑む際の明確な争点になります。

 今後の野党政局の動向にとって、極めて重要な勉強会が発足したことになりますが、この流れを仕掛けた馬淵澄夫という政治家は、いかなる考えを持った人なのか。

 以下でじっくりと検討していきたいと思います。

田中角栄がヒーローだった

 馬淵さんは、次のように言っています。

 私は政治家を志したときに、政治家になるからには総理になる、と決心していました。(「私は日本の父親になる!」『月刊日本』2011年10月号)

 また別のところで、「先の目標は総理大臣ですか」と聞かれ、「当然です」と答えています。(「田中角栄にあこがれて迷わず土木」『日経コンストラクション』2010年12月24日号)

 では、いつから強い意志を持って「政治家になる」「総理大臣になる」という道を歩み始めたのでしょうか。

 馬淵さんの父(俊造さん)は、昭和3年(1928年)生まれの陸軍士官学校出身者で、職業軍人になることを目指していましたが、それを前にして終戦を迎えました。

 国家のために尽くしたいと強く思っていた父は、大きな挫折を味わいます。戦後、家族をもってからも「家に帰ってきては酒を飲んで、こんなはずではなかったと愚痴をこぼす父親は、大黒柱というイメージではなかった」。(「私は日本の父親になる!」『月刊日本』2011年10月号)

 父はあまり熱心に働きたがりませんでした。家は母(法子さん)を中心に回り、馬淵さんも小学2年生から牛乳配達をして家計を助けます。

 そんなとき、テレビで目にしたのが田中角栄でした。

自民党の時局演説会で講演する田中角栄幹事長=1969年10月16日、東京都新宿区の日本青年会館

 1972年7月、田中角栄が総理大臣になりました。このとき馬淵さんは小学6年生。学校の先生が授業を中断し、自民党総裁選のテレビ中継をつけた時、そこに映し出された田中の姿を見て、憧れを抱いたといいます。

 私の目には、田中角栄の姿が一人のヒーロー、日本という国の父親として映りました。むろん、当時は子供ですから、政治家の何たるかはわかっていなかった。しかし、子供心に、こんな大人になりたい、政治家というもの、総理大臣になりたい、と思ったのです。(「私は日本の父親になる!」『月刊日本』2011年10月号)

 政治家になってからの馬淵さんが、田中角栄に触れて、繰り返し語っているエピソードがあります。田中は自らの理念を問われると、次のように言ったといいます。

 家に帰ってきて、家族の顔を見ながら一杯やる。そうすると、祭囃子が聞こえてくる。その音にいざなわれ、ふと家族といっしょに外に出かける。そんなささやかな豊かさを保守したい。どんな地域に住んでいても、どんな世代でも、日本国民が日常の小さな幸福を抱きしめて生きていけるようにしたい――。

 馬淵さんは、この光景こそが、「日本政治の立ち返るべき原点」だと言っています。

 この何気ない日常が、行き過ぎた近代主義や新自由主義によって破壊されている。貧困や格差が拡大し、ささやかな幸福から見放されてしまった人たちがいる。

 そこに政治が果たさなければならない役割がある。そう言います。

土木技術者から政治家に

 1984年に横浜国立大学工学部を卒業し、三井建設に入社します。これも田中への憧れで、「土建屋になって政治家になろう」と思ったといいます。(「田中角栄にあこがれて迷わず土木」『日経コンストラクション』2010年12月24日号)

 三井建設では土木技術部と技術研究所を行き来し、コンクリートの開発に携わります。しかし、「土建屋で独り立ちできそうにない」と考え、5年で退社。頼ったのは同級生の父で、大阪で手広く商売を展開する北田陽栄という人物でした。

 北田が経営する工務店に入ると、待っていたのは草むしりや運転手の仕事でした。そのうち、働きが認められ、大きな仕事に抜擢されます。

 あるとき老舗の上場企業でコンピューター関連商品製造販売会社のゼネラルが、仕手筋に株を買い占められてしまいます。北田はホワイトナイトとして参戦し、裁判闘争を経て大株主になりました。そこで馬淵さんが取締役として送り込まれます。この時32歳。上場企業で最年少の役員になりました。(「(変革の政治家:5)馬淵澄夫 質問魔がめざす日本国の経営者」『AERA』2009年6月22日号)

 ここで馬淵さんは、経営者として経験を積みます。製造から財務までこなし、北田から「どんな修羅場でも、どんな強い相手を前にしても、決して怯まず突き進んでいく、という生き方を叩き込まれ」たと言います。(「「有事の人間」が選対委員長として民主党再生のど真ん中で働きます!」『財界にっぽん』2013年11月号)

 政治家になる直接的なきっかけは、1998年に新橋の居酒屋で、民主党の若手とお酒を飲んだことにありました。この時同席したのが、野田佳彦さんや枝野幸男さんで、「お金がないのにどうして選挙で当選できたのか」と問うと、「毎朝街頭に立つんですよ」と言われ、出馬を決意します。

 39歳の時(2000年)、奈良1区から民主党公認で立候補。この時は落選しましたが、2003年の総選挙で自民党公認の高市早苗さんを破り、初当選します。

衆院経済産業委員会の閉会中審査で東京電力社長に質問する馬淵澄夫氏=2013年9月27日

耐震データ偽装問題で頭角を現す

 「土建の端くれ」という意識があった馬淵さんに、技術者としての経験が生かされる事態が起こりました。2005年に発覚した耐震データ偽装問題です。

 一級建築士による構造計算書偽造が発覚すると、大きな社会不安が広がり、連日、メディアが大々的に報じる騒動になりました。この時、馬淵さんは国会における疑惑追及の中心を担います。

 始まりは2005年11月下旬に議員会館事務所に届いた告発文でした。これがきっかけで現地調査に加わり、建設会社に鉄筋量を減らすように指示したメモや政治家・官僚とのつながりを告白した録音テープなどを入手します。

 偽装問題の背景に政治家が絡んでいるのではないかという疑念を抱いた馬淵さんは、国土交通省に口利きしたとされた安倍晋三内閣官房長官(当時)の政策秘書の参考人招致を要求します。

 当時、民主党は2005年の郵政選挙で自民党に大敗し、勢いを失っていました。しかし、馬淵さんが疑惑を鋭く追及する姿は、野党に対する期待を喚起し、「民主党にとって久々のクリーンヒット」(『朝日新聞』2005年12月28日)といわれました。

 馬淵さんの政治活動は、疑惑の追及に留まりません。制度をいかに改めるべきかという政策論へと発展し、改革案を提示します。

 彼の見るところ、問題の根本には設計、施工、監理の三つの権限が分離されていない日本の建築業界の構造にあります。この三つは本来、立法・行政・司法の三権分離のように、相互に抑制し合うことが重要ですが、大工の棟梁制度という徒弟制度をとってきた日本では、「棟梁が図面を引いて、現場で差配し、チェックするという三つの機能が一体として為される伝統文化」が根っこにあり、このシステムがあいまいなまま残っていました。

 馬淵さんは、三つの分離が必要不可欠であると考えます。結局のところ、多重多層の下請構造が出来上がり、しわ寄せが下請け業者に押し付けられていました。これを変えなければならないと考え、政策提言を積極的に行います。(「設計・施工・監理の三権能を明確に分離せよ」『セキュリティ研究』2006年8月号)

 馬淵さんは、ビジネスマン時代に、高層マンションなどの開発を手掛けた経験から、日本の建築のあり方に危機感を抱いていました。日本では建物の寿命が短く、常に投機の対象になってしまいます。そうすると利益を最大化する効率性ばかりが追求され、ヒューマンスケールに合わない建物が続出してします。界隈性や人が滞留できる無駄なスペースがなくなっていき、日常生活が窒息していきます。

 そんな現状に、馬淵さんは異議を申し立てます。

 いつの間にか商業的に無駄なものは排除され、とにかく坪単価いくらで土地を仕入れて売却するのかだけが勝負になっていきました。また、一瞬にして立ち上げて売り払うことが商売の要諦になってしまいました。私はそうではないと思います。建物は恒久構造物であり、人が生まれ、また死を迎えるところでもあるのですから。(「設計・施工・監理の三権能を明確に分離せよ」『セキュリティ研究』2006年8月号)

 馬淵さんの政治家としての特徴は、責任追及よりも、今後の政策的課題の追求に軸足が置かれていることです。

 第一次安倍内閣でも松岡農水大臣の疑惑追及に注目が集まりましたが、馬淵さんの本質は、リアリズムに基づく政策提案と合意形成にあります。その背後には、功利主義や新自由主義への懐疑があり、政治が是正のための役割を果たすべきであるという信念があるのでしょう。

高速道路無料化

 土建業界での経験は、道路問題にも生かされることになりました。その看板政策が、高速道路無料化です。

 まず確認しなければならないのは、馬淵さんはすべての高速道路の無料化を主張しているわけではないという点です。一旦、すべての高速道路を無料開放し、社会実験によって渋滞状況を把握する。その上で、渋滞発生路線では渋滞緩和を目的とした「渋滞税」を徴収する。そういう提案です。

 交通量の多い高速道路は有料化。一方で、交通量に余裕がある路線では無料化を実施する。これによって経済効果を最大化し、地方の活性化を促す。

 運送会社は通行料の負担を避けようとして、一般道路の使用をドライバーに指示しがちです。その結果、一般道での自己の危険性が増し、ドライバーへの負担も重くなります。一般道路の交通量が多くなることで渋滞が起き、CO2排出量も増えます。高速道路無料化は、一般道の渋滞を緩和することに繋がり、歩行者が暮らしやすい街づくりやドライバーの長時間労働の解決、CO2削減などに繋がる。そう馬淵さんは主張します。(「「道路問題」はこう解決するしかない」『週刊新潮』2008年4月24日号)

 このような積極的提案を行う過程で、馬淵さんは「ミスター道路」と呼ばれるようになりました。土木関係での活躍が、のちの民主党政権時代に、国土交通省の副大臣、そして大臣を務めることに繋がります。

反対一辺倒からの脱却

 政権交代前の野党時代に、力を入れていたのが、国会改革でした。

 馬淵さんが野党のあり方として一貫して主張してきたのが、反対一辺倒ではない建設的議論の促進でした。

 野党の国会戦略は、委員会などで政府側の問題点を追及して審議を止め、審議未了で廃案に追い込むという形になりがちです。そうすると、委員会を紛糾させるような追及が「よい質問」とされ、評価されるようになります。一方で、与党側は野党の追及をかわし、強引に法案を通してしまうことが多くなります。

 この与野党の否定的共犯関係を是正し、議論によって、より良い法案を作っていくような国会のあり方に変えていくべきだというのが、馬淵さんの主張です。

 そのためには、何をすべきか。

 まずは「会期不継続の原則」をやめる必要があると言います。日本の国会では、法案を会期中に処理しなければなりません。しかし、通常国会、臨時国会、特別国会という細切れ状態の中で、審議未了のまま廃案になることが多くなります。これを年間通して審議を行う「通年国会」制に変える必要がある。そう論じます。

 また「逐条審査」を導入し、徹底審議の実現を目指すべきだと言います。現在の国会では、法案全体について、様々な議員が同じような質問を繰り返します。これを「逐条審査」に切り替えることによって、細かく条文ごとに審議し、具体的な修正ポイントを明らかにすることができると主張します。

 他にも「行政監視を行う常任委員会」を設置すべきと提案しています。国会では、与党の大臣がスキャンダルや不適切発言を行うと、その追及に多くの時間が費やされます。その一方で、法律や予算の審議が滞り、議論が十分になされないという事態が生じます。

 馬淵さんは、行政監視の委員会を別に設け、スキャンダルなどの疑惑追及を別枠で行うべきであると言います。

 他にも「党議拘束の緩和」や「議員立法の充実」などを訴えていますが、意図しない形で、国会改革のチャンスが巡ってきました。「ねじれ国会」の成立です。

 第一次安倍内閣は、2007年の参議院選挙の敗北によって、参議院での過半数を失い、民主党が参議院第1党になりました。その結果、両院で法案を通すために、自公政権は民主党案を一定の範囲内で採用し、修正決議を行うようになりました。国会改革の一端が実現したことに、馬淵さんは率直な喜びを表明しています。

 衆議院三分の二の議席を占める力で押す与党と、単に抵抗しかない野党という、マスコミの言うような、紋切り型の構図から一歩踏み出して、与党と一体となって、真の政治主導のための霞が関改革に踏み出せたことは本当に大きなことだと思っています。(「国会改革の現状と展望」『世界と議会』2008年10月号)

 一方、ねじれ国会の成立は、政権与党の弱体化につながっていきます。安倍→福田→麻生という短命内閣の連続によって、民主党による政権交代が現実のものとして迫ってきました。

 2008年9月の民主党代表選挙で、花斉会(野田グループ)に所属していた馬淵さんは、領袖である野田佳彦さんの擁立を模索しました。しかし、当時は小沢一郎さんの再選支持が大勢を占めていたため、野田さんは立候補を見送りました。

 馬淵さんは、この決定を不服として、花斉会を退会します。当時、馬淵さんは民主党議員の座談会で「どのグループにも派閥にも属さず、一人ひとりの国会議員に自分の考えを訴え、連携をしていきたい」と述べています(長妻昭、馬淵澄夫、細野豪志、福山哲郎「民主「四天王」直撃 鳩山政権で大丈夫?」『文芸春秋』2009年7月号)。

民主党の選挙用ポスターを発表する馬淵澄夫政調会長代理=2012年11月26日、東京・永田町の民主党本部

 山本太郎さんと立ち上げた「消費税減税研究会」にも、このスタンスが踏襲されていると見ることができるでしょう。派閥の論理や党議拘束によって持論に蓋をするのではなく、自分の主張をアグレッシブに問い、連携を模索する。この姿勢が、消費税減税をめぐって山本太郎さんと共鳴し合う素地となっているのでしょう。

民主党政権誕生、そして参院選敗北

 2009年9月、遂に政権交代が実現し、鳩山内閣が発足します。

 馬淵さんは国土交通省副大臣に就任し、土木行政の中枢に参画することになりました。

 馬淵さんが取り組んだのは、やはり高速道路無料化でした。まずは政・官・財の癒着の温床になってきた「道路特定財源」を一般財源化し、国会の監視下に置く。そして、段階的に無料化を進め、一般道の渋滞緩和を促進する。「首都高速や阪神高速は対象外」。「料金収入はいきなりゼロになるわけではない」。そう主張し、政策実現のために奔走しました。(「ミスター道路・馬淵氏に聞く 高速無料化四つの疑問」『AERA』2009年10月25日号)

 しかし、「高速道路無料化」という言葉が独り歩きし、すべての高速道路がすぐに無料になるという期待が、国民の間に広まりました。「全線を一気に無料化するわけではない」と馬淵さんが繰り返しても、構想の全体や詳細は届きません。やがて期待は失望に変わり、高速道路無料化は民主党政権の失敗の象徴とされてしまいます。

 馬淵さんにとって困難を伴ったのは、鳩山内閣の失速でした。参議院選挙が迫る中、普天間問題で国民の支持を失った鳩山内閣は、2010年6月に退陣し、代表選挙の結果、菅内閣が発足します。当初は60%を超える支持率を獲得したのですが、菅首相が消費税増税に言及し、さらに発言が二転三転したことから、支持率が急落します。

 そして、そのまま参議院選挙に突入し、民主党は惨敗します。結果、民主党(+国民新党)は参議院で少数与党となり、2007年とは逆の「ねじれ国会」が誕生しました。これにより高速道路料金の見直し法案の成立が、決定的に難しくなります。

国土交通大臣に~公共工事、八ツ場ダム、問責決議

 参議院選挙後の改造内閣で、馬淵さんは国土交通大臣に就任します。馬淵さんは、民主党政権が与えた誤解や混乱を収束させようと奮闘します。

 民主党は「コンクリートから人へ」というスローガンを掲げたことから、公共工事を一方的に削減しようとしていると理解されました。このことが地方を中心に不安を拡大させたのですが、馬淵さんは火消しに注力します。

 馬淵さんは、地域ゼネコンの再生の重要性を訴えます。地域の土木業者は防災の重要な担い手であり、「ある意味で準公務員的な立場」を担っている。しかも公共工事は、地方に対する「再配分機能」を持っている。本当に必要なインフラを作ることは、再配分政策として意味がある。「市場原理のみに任せると生き残るべき企業まで淘汰されるところが出てくる」。それは何としても避けなければならない。「(公共工事は)守るべき産業として一定程度は考えなければならない」。(「公共事業の再分配で地方を守る」『日経コンストラクション』2011年1月10日号)

 馬淵さんは「ひも付き補助金の一括交付金化」を訴え、地方分権と公共工事を連動させようとします。田中角栄に憧れて政治家になった馬淵さんですが、土木事業を重視しながらも、中央集権ではなく地方自治を重視する点が特徴と言えるでしょう。

 馬淵さんの前任の大臣は、前原誠司さんでした。前原さんは、鳩山内閣で国交大臣に就任すると、民主党のマニフェストに記載された「八ツ場ダムは中止」という文言に沿って、事業中止を明言しました。この突然の方向転換により、事態は混乱し、議論は紛糾しました。

 八ツ場ダムをめぐっては、利根川流域の基本高水のデータに疑義が生じていました。基本高水とは、流域に降った雨がそのまま河川に流れ出た場合の流量のことで、洪水を防ぐためのダム計画・堤防整備などで基準となる数値です。利根川流域についてはデータが提出されていたものの、その根拠となる資料が不明確で、再検証が求められていました。

 さらに前原前大臣の中止表明を受けて、下流の6都県が事業負担金の支払いを保留していました。この負担金は、ダム建設によって生活が大きく変わる住民の生活再建や関連道路・代替地整備に充てられており、支払いが止まることで、住民生活に支障が生じる可能性がありました。

 馬淵さんは、この状況の中で、「『中止の方向性』という言葉には言及しない」と発言します。中止という前提で話を進めることはしない。しかし、推進という方向転換ではない。中止という結論ありきで議論を進めると、基本高水問題では再びデータの恣意性が介入する可能性がある。事業負担金もストップしてしまう。一旦、「中止の方向性」という言葉を棚上げし、検討を再開する。そのような方向性を示し、事態の収拾に動きました。

 これにより、6都県の知事が支払いに応じると表明し、関連事業の中断という事態は避けられました。さあ、ここから「一切の予断のない再検証」のリーダーシップを取ろうと動き出した馬淵さんに、思わぬ方向から逆風が吹きます。参議院本会議での問責決議案の可決です。

 2010年11月に発生した尖閣諸島中国漁船衝突映像流出事件で、映像を流出させたのが国土交通省の外局である海上保安庁の職員だったことが発覚すると、大臣の責任が問われました。

 漁船衝突事件が起きたのは9月7日。この時点で、馬淵さんは大臣に就任しておらず、まだ副大臣でした。海上保安庁担当の副大臣はもう一人の三日月大造さん。馬淵さんにはしばらくの間、「報道ベースの情報以外があがってくることはありませんでした」。(「問責大臣「馬淵澄夫国交相」すべての批判に答える」『文芸春秋』2011年1月号)

 9月17日の内閣改造で大臣に就任した馬淵さんは、仕事を引き継ぎ、対応に当たります。そんな中、11月5日に衝突映像の流出が起き、海上保安庁の職員が名乗り出ました。この事態に対する責任を問われ、問責決議が可決します。

 馬淵さんは事実上更迭される形で、翌年1月に退任することになりました。大臣期間は、たった4か月間。課題を残したままの退任でした。

参院本会議で問責決議が可決され、起立して一礼する馬淵澄夫国土交通相=2010年11月27日

 馬淵さんは政府から離れ、民主党広報委員長に就任します。しかし、約2か月後の3月、東日本大震災が起こります。

 震災後の3月26日、馬淵さんは急遽、総理補佐官に任命されます。ここから放射性物質の拡散防止対策に取り組むのですが、3か月で解任されました。

 馬淵さんは、汚染水が地下水と共に海に漏れ出すことを防ぐ「地下遮水壁」の計画を進めましたが、東電の反応は鈍く、足を引っ張る行為が目立ちました。その結果、6月末の小幅改造で補佐官を外れることが決定し、経産副大臣のポストが提示されました。馬淵さんは、経産省の原子力政策を「根本的に受け入れられない」と判断し、そのことを菅首相に伝えると、「ならば降りてもらうことになる」と言われ、無役の一議員になります。(「総理も東電もどうかしている」『週刊現代』2011年7月30日号)

 一連のプロセスは、著書『原発と政治のリアリズム』(新潮新書、2013年)に詳しくまとめられています。当事者が見た現場の証言として、重要な価値のある著書です。

消費税増税反対を主張し、代表選出馬

 菅内閣は、一連の「菅おろし」の結果、8月27日に退陣を表明します。直後の29日に民主党代表選挙が行われることになるのですが、馬淵さんはこれに立候補します。

 この時、強く訴えたのが「復興増税反対」でした。復興財源を獲得するために増税するのはおかしい。デフレ脱却こそが重要課題であり、復興という有事に財政規律主義で経済成長否定路線をとるのは間違いである。増税がダメなのではなく、いま増税すべきではない。

 そして、次のように言います。

 この大災害が一千年に一度の大災害だとするならば、中長期的な視点に立って負債を返済していくという判断が政治には必要なのではないか。そして今生きる私たちの世代は、百年かけて負債を返済するための大前提である、経済成長のための基盤を今作り上げることに不退転の決意を示すべきではないか(「代表選 一匹狼の挑戦状」『文芸春秋』2011年9月号)

 馬淵さんはエネルギー政策による経済成長や金融政策による量的緩和の実行を訴えます。そして、最も強く主張したのが、消費税増税に対する反対でした。

 とにかく景気を無視した消費税増税は、「絶対に認められない」。経済が停滞し、デフレが続いているときに、財政規律と増税を行うのは、真逆の政策である。低所得者の生活困窮は加速し、格差が深刻化する。社会保障の財源確保のために消費税を上げるというのは本末転倒である。

 社会保障とはつまり、再配分機能のはずである。その財源に、最も所得とは連動性が低く、逆進性が高いと言われる消費税をあてるという方針が果たしてあるべき姿なのか。(中略)安定財源だからという大義名分のもとに、消費税をこのタイミングで社会保障のために増税するというのは違うのではないか。(「代表選 一匹狼の挑戦状」『文芸春秋』2011年9月号)

 馬淵さんは「増税反対」「デフレ脱却」を掲げ、民主党代表選挙に出馬しますが、1回目の投票で5候補中最少の票数に留まり、当選することができませんでした。この代表選は海江田万里さんと野田佳彦さんによる決選投票となり、結果、これに勝利した野田さんが首相になりました。

民主党代表選候補者の共同会見に臨む(手前から)前原誠司、馬淵澄夫、海江田万里、野田佳彦、鹿野道彦の各氏=2011年8月27日、東京都千代田区

二度目の代表選、落選、復活当選

 2012年12月、野田内閣による解散によって衆議院選挙が行われました。その結果、民主党は公示前の231議席を大幅に下回る57議席の当選にとどまり、野田政権は崩壊しました。自民党・公明党による政権交代が起こり、第二次安倍内閣がスタートします。

 民主党は12月25日に代表選挙を行いましたが、馬淵さんはこれに出馬します。しかし、結果は海江田万里さんが90票獲得したのに対し、馬淵さんは54票で、海江田さんが代表に就任しました。

民主党新代表に就任した海江田万里氏(中央)は野田佳彦首相(右)、馬淵澄夫元国交相(左)と気勢を上げた=2012年12月25日、東京都港区

 馬淵さんは、幹事長代理に就任。2013年5月に幹事長代行となり、9月には選挙対策委員長に起用されました。

 馬淵さんは、民主党政権による原発事故対応の検証と共に、経済政策を重要課題に設定しました。2013年の対談では、「民主党として一番できなかったのが経済の部分」と指摘し、「経済の状況がよくなかったがゆえに目の前の明日の飯の話が優先しちゃったのです」と述べています。(元木昌彦、馬淵澄夫「不作為による無責任の連鎖:メディアは問題の本質を伝えるべき」『エルネオス』2013年3月号)

 しかし、野党は明確な対抗軸を打ち出すことができず、安倍内閣の長期政権化を許してしまいます。2017年9月には、唐突に「希望の党」への合流が決定され、大きな混乱が生じました。直後に行われた衆議院選挙で、馬淵さんは希望の党から出馬しますが、小選挙区で敗れ、惜敗率97.27%ながら比例復活もかないませんでした。

 馬淵さんは約14年間にわたって務めていた国会議員の地位を失います。しかし、この時落選した同志達を集め、「一丸の会」を結成します。

 希望の党騒動によって、惜敗率が高いにもかかわらず、比例復活がかなわなかった落選者が多数出ました。馬淵さんは、選挙対策委員長だった経験から、次のように言います。

 次の総選挙で立憲民主党、国民民主党、野党の無所属が数を増やすにはこれら落選者が当選していくことしかないんです。転区を強いられた候補者もいたし、一概に惜敗率だけでは言えませんが、ざくっと捉えれば、惜敗率60%以上の44人は、次の総選挙で野党が伸びるための礎となる大きな塊です。(塩田潮、馬淵澄夫「“野党が永遠にダメな状況”を変えられるか」PRESIDENT Online、2018年6月14日)

 そんな中、馬淵さんは、不意に議席を回復します。

 2019年4月、自民党の北川知克さんの死去にともなって、大阪12区の補欠選挙が行われることになりました。これに旧希望の党比例近畿ブロック単独で当選していた樽床伸二さんが出馬することになり、1月28日に議員を辞職しました。この結果、惜敗率の高かった馬淵さんが繰り上げ当選となり、国会に戻ってくることになります。

 そして、冒頭の山本太郎さんとの「消費税減税研究会」の立ち上げに至ります。この時、馬淵さんのもとに駆け付けた人の中には、苦労を共にしてきた「一丸の会」のメンバーが多く含まれていました。

リベラル保守の政治家

 馬淵さんの政治家としての特質をまとめてみたいと思います。

 馬淵さんは政策実現に強いこだわりを持っているリアリストです。しかし、急進的な改革を志向しているわけではありません。彼が説くのは漸進的改革の重要性です。

 何事もそうですが、物事は急激には変わらない。急激に変えたときには必ず揺り戻しがきますから。(中略)変わるわけがないと思われているものを徐々に1ミリ1ミリ、地道に変えていくのが私たちの仕事です(「建築基準法に代わる新法の議論を国会で始めたい」『日経アーキテクチュア』2010年2月8日号)

 さらに「安倍政権は保守ではない」と指摘します。

 真の保守とは多様性を認めることを一義としています。「共に生きる社会」をつくる、これこそが真の保守が目指すべき方向です。日本の文化や伝統は、古来より多様性や多様な価値観を認めてきました。「共生」の理念こそ真の保守であり、我々はそこに立っているわけです(馬淵澄夫、長島昭久、鷲尾英一郎「特別鼎談 民主党次世代リーダーが語る 保守政党の原点に立ち返り野党結集で活路を切り拓く」『経済界』2015年10月6日号)

 馬淵さんは価値観をめぐる政策については、多くの言及がない政治家ですが、mネットが2014年11月に出した「選択的夫婦別姓アンケート集計結果」では、賛成議員の中に名前を連ねています。また、保守こそが多様な価値を尊重すると訴えていることから、リベラルの志向性を見て取ることができます。

 ここでいつもの図を見ていただくことにしましょう。

 馬淵さんは、Ⅱのゾーンを「保守」の論理に基づいて追求する政治家だということができるでしょう。現実主義的な「リベラル保守」の政治家と位置付けるのが適当だと思います。

 馬淵さんの消費税減税論は、山本太郎さんの動向と連動し、今後の野党のあり方に大きな影響を与えるでしょう。

 落選という厳しい状況下で、「一丸の会」を率いてきたことが、馬淵さんの政治力に繋がっており、今後は野党再編のキーマンとして注目の的になるでしょう。一貫して「総理を目指す」と言及し、民主党代表選に二度チャレンジしていることから、野党糾合のリーダーとなることを志向しているはずです。田中角栄に憧れ、関西の経営者たちに揉まれる中で築いてきた突破力と人情、そして野心は、野党の中では貴重な存在です。

 馬淵さんは野党再編のキャスティングボートを握るのか。今後の動向と発言に、注目したいと思います。

旧民進党系の落選議員らによる「一丸の会」の会合で、野党結集の必要性を訴える馬淵澄夫氏=2019年7月31日、神戸市中央区