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中島岳志の「野党を読む」(4)馬淵澄夫

山本太郎より先に消費税減税を訴えていた馬淵氏。野党再編のキーマンに急浮上した

中島岳志 東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授

田中角栄がヒーローだった

 馬淵さんは、次のように言っています。

 私は政治家を志したときに、政治家になるからには総理になる、と決心していました。(「私は日本の父親になる!」『月刊日本』2011年10月号)

 また別のところで、「先の目標は総理大臣ですか」と聞かれ、「当然です」と答えています。(「田中角栄にあこがれて迷わず土木」『日経コンストラクション』2010年12月24日号)

 では、いつから強い意志を持って「政治家になる」「総理大臣になる」という道を歩み始めたのでしょうか。

 馬淵さんの父(俊造さん)は、昭和3年(1928年)生まれの陸軍士官学校出身者で、職業軍人になることを目指していましたが、それを前にして終戦を迎えました。

 国家のために尽くしたいと強く思っていた父は、大きな挫折を味わいます。戦後、家族をもってからも「家に帰ってきては酒を飲んで、こんなはずではなかったと愚痴をこぼす父親は、大黒柱というイメージではなかった」。(「私は日本の父親になる!」『月刊日本』2011年10月号)

 父はあまり熱心に働きたがりませんでした。家は母(法子さん)を中心に回り、馬淵さんも小学2年生から牛乳配達をして家計を助けます。

 そんなとき、テレビで目にしたのが田中角栄でした。

拡大自民党の時局演説会で講演する田中角栄幹事長=1969年10月16日、東京都新宿区の日本青年会館

 1972年7月、田中角栄が総理大臣になりました。このとき馬淵さんは小学6年生。学校の先生が授業を中断し、自民党総裁選のテレビ中継をつけた時、そこに映し出された田中の姿を見て、憧れを抱いたといいます。

 私の目には、田中角栄の姿が一人のヒーロー、日本という国の父親として映りました。むろん、当時は子供ですから、政治家の何たるかはわかっていなかった。しかし、子供心に、こんな大人になりたい、政治家というもの、総理大臣になりたい、と思ったのです。(「私は日本の父親になる!」『月刊日本』2011年10月号)

 政治家になってからの馬淵さんが、田中角栄に触れて、繰り返し語っているエピソードがあります。田中は自らの理念を問われると、次のように言ったといいます。

 家に帰ってきて、家族の顔を見ながら一杯やる。そうすると、祭囃子が聞こえてくる。その音にいざなわれ、ふと家族といっしょに外に出かける。そんなささやかな豊かさを保守したい。どんな地域に住んでいても、どんな世代でも、日本国民が日常の小さな幸福を抱きしめて生きていけるようにしたい――。

 馬淵さんは、この光景こそが、「日本政治の立ち返るべき原点」だと言っています。

 この何気ない日常が、行き過ぎた近代主義や新自由主義によって破壊されている。貧困や格差が拡大し、ささやかな幸福から見放されてしまった人たちがいる。

 そこに政治が果たさなければならない役割がある。そう言います。

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筆者

中島岳志

中島岳志(なかじま・たけし) 東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授

1975年、大阪生まれ。大阪外国語大学でヒンディー語を専攻。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科でインド政治を研究し、2002年に『ヒンドゥー・ナショナリズム』(中公新書ラクレ)を出版。また、近代における日本とアジアの関わりを研究し、2005年『中村屋のボース』(白水社)を出版。大仏次郎論壇賞、アジア太平洋賞大賞を受賞する。学術博士(地域研究)。著書に『ナショナリズムと宗教』(春風社)、『パール判事』(白水社)、『秋葉原事件』(朝日新聞出版)、『「リベラル保守」宣言』(新潮社)、『血盟団事件』(文藝春秋)、『岩波茂雄』(岩波書店)、『アジア主義』(潮出版)、『下中彌三郎』(平凡社)、『親鸞と日本主義』(新潮選書)、『保守と立憲』(スタンドブックス)、『超国家主義』(筑摩書房)などがある。北海道大学大学院法学研究科准教授を経て、現在、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。

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