(20)細川護熙はあまりに淡泊だった。渡辺美智雄と羽田孜は決断できなかった
2019年11月11日
1955年体制を粉々に打ち砕いた細川護煕・非自民連立政権はわずか9か月で歴史の舞台から去っていった。
この政権をプロデュースし屋台骨となって支え続けた小沢一郎はいま、「細川政権が2年続いていたら自民党はもう崩壊してましたね」と回顧し、歴史の大きい歯車が回りきらないうちに主役が舞台から降りてしまったことを悔やむ。
しかし、「小沢一郎戦記」主人公の戦いの記録は現在進行形でまだまだ続いている。人々の生活が続く限り人間の歴史は展開し、そこに政治の世界は存在し続ける。つまり日本政治の改革を己の使命とする小沢一郎の戦いの記録には終幕はないのだ。
1993年から94年にかけて細川政権の経験があり、さらにその後2009年から12年にかけて民主党政権の挑戦と挫折があった。それらの歳月の果てに現在、安倍自民党政権が存在している。
「そして、もう一回舞台を回さないといけない」
こう語る小沢にインタビューを重ねるうちに、私は最も基本的なことに今更ながら気がついた。私が質問を重ね、その言葉を逐一レコーダーに記録している相手は歴史家でも政治学者でも文学者でもない。果てしのない日本政治の改革を志し、どんなことがあっても決して自己の使命を忘れずに、日々努力を積み重ねている一人の重要な「職業政治家」なのだと。
「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である」(マックス・ヴェーバー『職業としての政治』岩波文庫)
第一次世界大戦に敗れ、騒然とした空気に包まれていた1919年1月、M・ヴェーバーは権力としての政治の本質について講演した。原題はPolitik als Beruf。Berufの意味はここでは「職業」と翻訳されているが、何よりもヴェーバーが代表作『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で駆使したキーワードBeruf、邦訳では「召命」「天職」、そして「使命」である。
使命感に貫かれた「職業としての政治」。わかりやすい言葉で叙述された前記のヴェーバーの政治の定義。これ以上に小沢一郎の本質を言い表した言葉があるだろうか。
1994年1月29日、小沢一郎が念願としていた政治改革法案が衆参両院で可決した。その5日後の2月3日、細川護煕首相は6兆円減税と税率7%の国民福祉税構想を発表したが、世論の猛反発にあって翌日に撤回した。その後、水面下では、自民党の派閥領袖、渡辺美智雄と細川、小沢の連携、駆け引きが激しく交錯していく。
『内訟録 細川護煕総理大臣日記』(日本経済新聞出版社)によれば、「渡辺新党」結党を目指して動いていた山崎拓は94年3月9日夜、公邸裏口から密かに入邸して、「YKK(山崎、加藤紘一、小泉純一郎)を中心に100人から150人ほどで決起する。連立を組みたい」という趣旨のことを細川に申し入れている。
現実にはそれほどの議員数は集められなかったが、小沢と細川、羽田孜の3人は、細川の後継として渡辺を立てることで合意した。(小林泰一郎『語る 小沢一郎』文藝春秋)
――細川内閣は1994年4月25日の臨時閣議で総辞職します。しかし、その前に渡辺美智雄さんが自民党を出るという話が水面下で進んでいました。渡辺さんの先兵として動いていた山崎拓さんがYKKを中心に新党工作をしているという話が山崎さん自身からもたらされましたが、小沢さんはYKKが本当に嚙んでいるならもっと情報が漏れてくるはずだと言って警戒感を示していた、と3月22日の細川さんの日記にはあります。
小沢 そうだったかな。そうだったかもしれないが、それは覚えていない。
――その後、細川さんが辞めた後、渡辺さんを後継首相にしようということで、小沢さんは渡辺さんの決断を待っていたわけですよね。
小沢 そうです。しかし、渡辺さんは最後まで決断しなかった。本当に最後まで待っていたが、決断をしなかった。外相だった羽田(孜)さんが外遊中のモロッコから帰って来る4月17日の正午まで決断の連絡を待つと渡辺さんに言ってあった。羽田さんが日本に着いてしまったらおしまいだ、だからタイムリミットはこの日の正午ですと言っていたんです。だけど、全然連絡がありませんでした。
――その後、渡辺さんには、なぜ決断しなかったか確認したことはありますか。
小沢 ありません。そんな過ぎたことを言ってもしようがないでしょう。決断できないんですよ。誰も彼も、みんないざとなると決断できないんです。風貌よりも意外と繊細なんです。ぼくの印象では、中川一郎さんもそうでした。
――そうですか。しかし、細川さんはなぜ辞めてしまったんですか。
小沢 本当にわからない。
――細川さんの日記を読むと、本当に政治に嫌気がさしたようですね。
小沢 それもわからない。
――反面で、さっぱりと辞めたことで小沢さんは細川さんを評価もされていますね。
小沢 潔いところはありますね。その考え自体は立派だと思います。ただ、後で聞いたら、本当に何もやましいところはないんだから、そんなことをする必要はなかった。ぼくはその時相談されなかったからわけがわからなかったけど。NTT株を買ったとか、佐川急便からお金を借りたとか、それ自体は何も悪いことはないんです。
――佐川急便からのお金も返済しているんですよね。根抵当権が抹消されているんだから、返済した以外にはありえませんね。
小沢 それは、ぼくが自民党の人から後で聞いたんだけど、自民党がさんざん脅かしたらしい。
――どういうふうに脅かしたんですか。
小沢 よくは知らないが、大変な事件になるぞというようなことを言ったんじゃないですか。
――そういうことですか。小沢さんの見通しとしては、細川政権があと1年か2年続いていれば自民党は相当割れただろうということですよね。
小沢 分解したでしょう。当時、離党者が続出していましたから。
――そうですか。仮に細川政権ではなく、渡辺美智雄さんが決断して自民党を出ていれば、政界はまた違った眺めになっていたでしょうね。
小沢 はい。あの時渡辺みっちゃんが本気になっていたら絶対に勝っていましたね。勝負をかければよかったのに、みんないざとなると決断できないんです。みっちゃんは二度も首相になりはぐれてしまって、残念なことをしました。
羽田孜は、朝日新聞記者から衆院議員になった羽田武嗣郎の長男。1969年の初当選以来、佐藤栄作の派閥に続いて田中角栄派に属した。「竹下派七奉行の一人」とされ、金丸信から「平時の羽田、乱世の小沢、大乱世の梶山」と言われた。
その後、政治改革を通じて小沢の盟友となった。蔵相などを歴任したが、宮沢内閣の外相就任を断り、小沢らと自民党離党行動をともにした。
細川内閣総辞職後、連立政権から離脱した社会党抜きの少数与党内閣を組織。自民党の内閣不信任案提出に対して解散総選挙で対抗する姿勢も示したが、結局内閣総辞職を選択、わずか64日の在任期間となった。
――細川さん辞任後、渡辺美智雄さんの首相の可能性がなくなり、羽田孜さんが再び浮上しました。しかし、小沢さんが最初に警告した通り64日という短命政権となってしまいました。
小沢 そうですね。
――羽田内閣は総辞職しましたが、この時に解散総選挙を選択していたらどうなっていましたか。
小沢 羽田さんは最初は解散に積極的だったんだよ。それが夜中になるに従ってどんどん弱い姿勢になっていってしまった。羽田さんは、みんなに言われると弱くなってしまうんだ。
――当時の新聞報道を見ますと、1994年6月24日、午後5時から小沢さんが首相官邸執務室に入って、10時間以上そこにこもって対応を協議したということですね。
小沢 対応協議ということではない。羽田さんが「選挙する」と言うから、「それはいい。やりなさい」と言って、内々にうちの新生党の方に指示を出していたんだ。そうしたら、みんな飛び上がっちゃって羽田さんのところに会いに来ていろいろ言い出したんだ。石破(茂)さんとか岡田(克也)さんたちが来たね。それから電話があちこちからかかってきて、最初の勢いはどこかへ行っちゃってどんどん軟化してしまったんだ。
――そうですか。
小沢 いったん辞職して、また首班指名を受ければいいというような話も社会党あたりから出たんだ。そんな馬鹿な話はありえないんだが。社会党としては、細川さんの後、羽田さんが首相になったことが面白くなかったんだろうと思います。やはり第一党は自分たちだという思いがずっとあったんでしょう。それで自民党といろいろ交渉していましたから。「いったん辞めて、また首班指名がある」というようなおかしなこともそれで言い出したんだと思います。
――そういう話を受けて、羽田さんは小沢さんに相談したんですか。「社会党が実はこんなことを言ってきているんだが」とか。
小沢 そういう話はあったと思います。だから、「そんなことはありえない」と言いました。「そんなことは戯れ言だ。総辞職して辞めた人間をすぐにまた首班指名するなんていうことはない」と。だから、社会党はその時、自民党とすでに話をしていたんだと思います。
――なるほど。社会党としては、万が一総選挙になったら党としてまずいという情勢判断があったんでしょうか。
小沢 そうですね。選挙が怖いということと、やっぱりこの時もう自民党と話ができていましたから。
――小沢さんはこの時、官邸に10時間いたわけですが、ぴったり羽田さんと一緒にいたんですか。
小沢 いましたよ、ほとんど。ただ、この時権力があるのは羽田さんの方だからね。その羽田さんの方から「解散する」と言い出したんで、ぼくは「いいよ」と言っただけです。ぼくの方から別に「解散しろ、解散しろ」と言ったわけではありません。その時に、岡田さんや石破さんも来たし、電話もかかってきて、羽田さんがだんだん萎れてきてしまったんです。
――社会党からの話もその電話の中の一本だったんでしょうね。
小沢 だと思う。それで、ぼくは「もうそれは筋論としておかしいし、常識的にそんなことはありえない」という話をしたんだけどね。
――小沢さんとしては羽田さんに対して冷静に客観的に説得されたわけですが、羽田さんとしては、うまくいけばそういうこともあるかもしれない、という考え方だったのでしょうか。
小沢 自分の都合のいいように考えたんですね。
――簡単に言えば、楽な道を選ぼうとしたんでしょうか。
小沢 そう。みんなそうなんです。安易な道は絶対にいいことはないんです。
――もし解散総選挙になっていたら、小沢さんと羽田さんは勝ったでしょうか。
小沢 勝ったかどうかはわかりませんが、自民党と社会党のそういう話し合いはだめになったかもしれないね。
――そうですね。選挙になれば自民党と社会党が組むということはありえないことですからね。
小沢 ありえません。
――しかし、小沢さんのこの第一のチャレンジ、非自民連立政権はある程度シナリオ通り進んでいましたから、残念でしたね。
小沢 細川さんには参りました。しかし、細川さんだからまとまったんです。一長一短だから仕方ないけど、もう少ししつこい粘り腰があれば絶対大丈夫だったんです。細川さんのマフラーの巻き方ひとつで世間を風靡するほどの人気があったのに、最後があまりにも淡泊だったんですね。
――そうでしたね。国民は細川さんのようなああいう新しいスタイルにある意味で飢えていましたね。国民福祉税の騒動がなければもっと良かったかなと思いますが。
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