萩生田文科相の「身の丈」発言を契機とした英語民間試験の導入延期は当然として……
2019年11月06日
萩生田光一文部科学大臣の「身の丈」発言を契機に、来年度から始まる大学入学共通テストへの英語の民間試験導入について「地域による不公平性」「経済的負担の大きさ」「7種類の試験の比較の難しさ」等が政策的欠陥として取り上げられ、世論が一気に盛り上がり、5年間延期されることが決まりました(朝日デジタル2019年11月1日)
。
私は、今回の民間試験は、
①地域によって受けられる試験にあまりに差がある、
②試験によっては相当に高額で生徒・家庭の負担が大きい、
③「練習受験」の回数制限がなく、①②の格差がそのまま評価・判定の格差に直結しかねない、
④7種類ものテストを相互に比較するのは技術的に極めて困難である、
⑤そもそも民間が出題・採点するのであり試験が公正に行われる保証がない、
と、あまりに問題が多く、導入延期の決定は当然であると思います。
一方、「延期」はあくまで延期であり、5年後の2024年には、制度に修正を加えた後、導入される予定となっています。延期が決定した後の自民党文部科学部会では、歴代の文科相が「延期は政治的だ」と批判したとも報じられているほか、急先鋒である柴山昌彦・前文科相、馳浩・元文科相らは11月5日文部科学省を訪れ、萩生田文部科学大臣に、(英語民間試験導入延期で)「失望感を与えることになった」とする決議案を手交して導入に強い意欲を示しています(朝日新聞デジタル2019年11月5日)
今般の民間試験導入は、政府・自民党が掲げる教育改革の目玉のひとつである大学入試改革(高大接続改革)の一環であり、政府・自民党はあくまで英語の民間試験導入と、これを含む大学入試制度改革を実行するつもりであると考えられるのです。
しかしながら私は、そもそも政府が掲げる大学入試改革自体が、ほとんど何の効果も無く、間違っていると思いますので、以下論じさせていただきます。
はじめに政府が掲げている教育改革と、その中における「英語民間試験導入」「大学入試制度改革」の位置づけを見てみましょう。
現在、政府は、「受け身から主体的な学びへ」を掲げて、初等教育から大学教育に至る大きな改革を掲げています。(新しい指導要領の考え方:高校教育改革概要:大学教育制度改革の概要:大学入試制度改革の概要)。
このなかで、高校教育と大学教育の双方において、英語においては「読む 聞く」技能から「読む 書く 聞く 話す」の4技能、その他の全教科においては「知識 技能」の習得をもとにした「思考力 判断力 表現力」、さらには「主体性をもって多様な人々と協働して学ぶ態度」を達成するものとされています。これらの高校教育における達成度を評価するために、英語においては4技能を評価する民間試験、国語、数学においては「思考力 判断力 表現力」を評価する記述式試験を行う大学入試改革を行うことを、政府は掲げているのです(詳しくはこちら)。
高校・大学の教育において、「受け身から主体的な学びへ」が実現し、英語において「読む 書く 聞く 話す」の4技能が習得され、その他全教科において「知識 技能」の習得をもとにした「思考力 判断力 表現力」、さらには「主体性をもって多様な人々と協働して学ぶ態度」が習得できるなら、それは極めて素晴らしい事であり、それが「理想の到達目標」であることに異論のある人はいないでしょう。
しかし、「理想の到達目標」を打ち出す事は誰にでもいかようにでもできます。問題は、政府が掲げている大学入試改革(延期された英語民間試験の導入と、国語と数学の筆記式の導入)によって、本当にその目標に到達できるのか、少なくとも目標に近づけるのかだと思われますので、この点について検討したいと思います。
まずもって、「大学入試」は言うまでもなく、大学入学者を選抜するための試験に過ぎず、「高校教育の達成度」を判定する試験でも、ましてや「大学教育での達成度」を判定する試験でもありません。またこれも当然のことながら、大学入試を改革しても、高校教育の中身や大学教育の中身を直接変えることにはなりません。
大学入試改革によって「理想の到達目標」に近づき・実現するには、それが、
①大学の入学者のより良い選抜方法として大学の教育を充実させる、
もしくは大学入試が事実上高校の教育の目標となっている現状に鑑み、
②高校の教育内容を向上させ高校生の学力を高める、
ものでなければなりません。
では、政府の掲げる大学入試改革(延期された英語民間試験の導入と、国語と数学の筆記式の導入)は、①大学入学者のより良い選抜方法として大学の教育を充実させる、ものとなりうるでしょうか。
私はまず、なりえないと思います。理由はシンプルで、英語を「書く 話す」技能、そして全教科における「思考力 判断力 表現力」は、そもそも評価・判定することが極めて難しいうえ、50万人に対して一律になされた評価・判定は、個別の大学、学部、学科の入学者の選抜にはほぼ役に立たないと思われるからです。
いうまでもないことですが、「読む 聞く」は、他人が書いたもの、話したものを正確に理解する技能ですから、問題に対するほぼ唯一の解答が存在します。従ってその技能の評価・判定はマークシート式の試験によって極めて容易に実現できます。そして、「読む 聞く」技能は大学でのほぼすべての学習の基礎になるものですから、この技能で入学者を選抜するのには、一定の合理性があります。それゆえに、「読む 聞く」技能は大学入学者の選抜に使われてきたのです。
しかし、「書く 話す」技能ではそうはいきません。何か相手に伝えたいことがある場合に、それを「書く 話す」には、仮に逐語訳であったとしても、極めて多数の方法が存在するからです。
極めて、シンプルな例文である「私はあなたを愛しています」を英語で言うように問われた場合、”I love you”が正解なのはもちろんですが、比較的一般的な口語表現である”I am really into you.” も「会話力」を重視する以上、当然正解にせざるを得ないでしょう。これが”You are so sweet.” “You are so hot.”、はやっているところで”You are so sexy.”だと少々微妙ですが、状況次第ではダイレクトに”I love you.” “I am really into you.”と言うより、この手の表現の方が適切な時もあるでしょう。
”I love you.”のかわりに「月がきれいですね」と言うアメリカ人は稀だと思いますが、とは言え季節柄、”I love you.”の代わりに、” All I want for Christmas is you.”位の表現をする人だっているだろうと思います。そして、ただ単に”I love you.”と言うのではなく、状況に応じてこれらの表現を使い分けることこそが、より高度な「書く 話す」技能なのですから、「書く 話す」技能を評価・判定しようとするなら、”I love you.”から”All I want for Christmas is you.”までの様々な「正解」を認めたうえで、評価し順位を付けなければなりません。
こうしたことを、50万人の受験者に対して短期間に公平・公正に行うことは、そう簡単ではありません。短期間に評価・判定しようとして「正解」を非常に狭く限定するなり、もしくは逆に「正解」を非常に広く認めるなりすると、今度は受験生間の差がつかず、大学入学者の選抜方法としての意味をなさなくなってしまいます。
さらに問題を難しくするのが、「書く 話す」技能が上記のように多様だとして、その多様さの中のどの方向の技能が求められるかは、進む領域によって大きく異なるという事実です。
数学科に進む学生にも英語の能力は必要だと思われますが、とは言え”I love you.”の代わりに”All I want for Christmas is you.”という能力は不要でしょうし、場合によっては邪魔になるかもしれません。一方、英文科に進む学生が舞台で、Julietから” Oh Romeo, Romeo! Why are you Romeo?”と問われたとき、真顔で”Cause my father named me so.”と答えたら、それは進むべき道を間違ったのではないかと、思わざるを得ません。
数学科に進む学生と英文科に進む学生に求められる英語を「書く 話す」技能はそれぞれ異なるにもかかわらず、受験生50万人全員に一律になされた評価・判定が、大学入学者のより良い選抜方法として大学の教育を充実させることになるとは、正直とても思えないのです。
「知識 技能」を問う質問に対する回答は基本的には一つですから、その能力の評価・判定は容易です。しかし、「思考力 判断力 表現力」となると、それはそもそも多様な思考・判断・表現をする能力のことですから、解答は一つではなく、その評価・判定は決して容易ではありません。だからと言って、「解答」を非常に狭く限定するなり、もしくは逆に非常に広く認めるなりすると、英語の「書く 話す」技能と同様に、大学入学者の選抜方法としての意味をなさなくなってしまいます。
さらに、その多様な「思考力 判断力 表現力」のなかで、どの方向の能力が求められるかは、当然ながら、進むべき分野によって違います。法学部に入って弁護士を目指す者に求められる思考力 判断力 表現力と、数学科に入って数学者になろうとする者に求められる思考力、判断力、表現力、インド哲学科にはいって哲学者になろうとする者に求められる思考力、判断力、表現力は違って当然です。
にもかかわらず、受験生50万人全員に一律になされた「思考力、判断力、表現力」の評価・判定が、それぞれの大学、学部、学科に対する入学者のより良い選抜方法として大学の教育を充実させることになるとは、やはりとても思えません。
それぞれの大学、学部、学科にふさわしい入学者の選抜方法として、英語の「書く 話す」技能、他の全教科の「思考力 判断力 表現力」を評価・判定するなら、現在行われているように、いったん共通の試験で選抜して受験者数を限定したうえで、それぞれの大学、学部、学科における二次試験でそれを行うのが、普通に考えて最も効率的で適正かつ公平です。一発勝負ではなく、高校教育での学習の達成度を見たいなら、高校における内申点を使えばいいわけですし、内申点の適正性、公平性を確立したいなら、その評価・判定制度それ自体を改革すべきでしょう。
そして何より、各大学、各学部、各学科で求められる英語の「書く 話す」技能、他の全教科における「思考力 判断力 表現力」、さらには「主体性をもって多様な人々と協働して学ぶ態度」は、本来は大学入学後の大学教育の中で培われるべきものであり、大学入学時の選抜に使うようなものではありません。入学後、4年間の時間をかけて大学教育の中で培うべき技能・能力を、入学時の選抜に使うこと自体、私には本末転倒以外の何物でもないと思えます。
結局のところ、政府の掲げる大学入試改革(延期された英語民間試験の導入と、国語と数学の筆記式の導入)は、大学入学者のより良い選抜方法として大学の教育を充実させるようなものではまったくないと言わざるを得ないのです。
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