首里城は沖縄にとってどのような存在だったのか(上)
2019年11月07日
10月31日午前2時40分頃、首里城の正殿から煙が見えるという119番通報があった。木造の正殿はまたたく間に燃え上がり、北殿、南殿・番所が全焼。火は書院・鎖之間、黄金御殿、二階御殿にも広がった。
11時間にわたって燃え続けた首里城。そして鎮火後の無残な焼け跡。首里の市民はぼうぜんと立ち尽くすしかなかった。
「生まれたときからずっとあったのに。親戚が死んだような気持ち」と、大学で会った学生は言った。「高校の卒業アルバムを撮った特別な場所。もう写真でしか思い出を探せない」と言う学生もいた。
失われたものは大きい。
沖縄県那覇市の北東部にある首里(かつては首里市だった)の街並みは、首里城を中心につくられているといっても過言ではない。
家屋やビルは首里城と同様、屋根に赤瓦が敷かれている。景観を損ねないよう、高さもおさえられている。その中心が焼失した。
首里城は最初の創建以来、沖縄の戦と政治の中心舞台であり続けてきた。今回焼失した首里城についても、すでに再建をめぐって政治が動き始めている。
2022年度から始まる新たな沖縄振興計画(沖縄振興特別措置法にもとづいて県が策定)や、2022年9月に予定されている沖縄知事選にも、首里城の再建問題は必ず関わってくるだろう。今後の再建のあり方を考えるために、本稿では、首里城がどのような存在だったのか、歴史を振り返ってみたい。
沖縄の地名、人名には「城」の字が多い。
新城、大城、城間、玉城……。現在では、「新城」一つとっても、「あらしろ」「しんじょう」など呼び方は一つではないが、もともとは「城」と書いて「ぐすく」(または「ぐしく」)とよんだ。戦前、沖縄から南米やハワイに移民した人たちの子孫は、現在でも「あらぐすく(新城)」「うふぐすく(大城)」などと名乗っている。
沖縄の人名・地名に「城」が多いのは、各地にグスクと呼ばれる城跡が残っていることと関係している。グスクは小高い丘や海岸の突き出た場所にあり、周囲を石積みの城壁で囲んだものが多い。かつては沖縄本島だけでも、200以上のグスクがあったとされる。
現在は、城壁のみが残っており、根謝銘グスク、今帰仁城跡、陣グスク、山田グスク、伊波城跡、勝連城跡、北谷グスク、安谷屋グスク、中城城跡、浦添城跡、三重城、南山城跡、米須グスク、大城城跡、玉城城跡、糸数城跡、知念城跡、首里城跡などの城壁が見られる。これらのグスクの多くは、13世紀末から14世紀にかけて造られたという。
日本本土で石積みの城が造られるようになるのは16世紀半ばからだ。沖縄では、本土よりも200年以上も早く、石積みの城壁を積み上げる技術が導入されていたことになる。
時代や場所にもよるが、城壁には主に柔らかくて加工が容易な琉球石灰岩が使われている。そのため、直線的な本土の石積みの城壁とは対照的に、沖縄のグスクの城壁は、急な崖の地形に沿ってなめらかなカーブを描いているものが多い。
この中で最も有名なグスクが、首里城跡である。三山と呼ばれる群雄割拠の時代に、浦添・首里グスクを拠点とする中山王が、今帰仁グスクの北山王と、島尻大里グスク・島添大里グスクの南山王を滅ぼして1429年、統一王朝である琉球王国を築いた。首里城は、ほかのグスクの主を滅ぼし、権力の頂点に立ったグスクなのだ。
琉球王国時代、国王は中国の皇帝からその地位を認められていた。中国からの外交使節「冊封使」が首里城を訪れ、冊封関係を確認する儀礼をとり行った。外交の舞台であった首里城は、約500年もの間、琉球王国の象徴であり続けた。
とはいえ、首里城は常に琉球王国の栄光の象徴だったわけではない。
徳川幕府が成立してまもない1609年、薩摩藩が琉球王国に侵攻。首里城を攻め落とし、尚寧王を降伏させて、琉球王国を薩摩藩と幕藩体制の従属下においた。
薩摩藩から琉球王国への重い税負担は、琉球王国が支配する諸々の島に転嫁された。首里の王府は細かい労働規則を設け、奄美大島から八重山諸島に至るまで、役人を派遣して体罰と鞭で規則を厳守させたという。現代芸術家の岡本太郎は、石垣島を訪れた際、郷土史家の証言を書きとめている。
上納の布を織るときには、女たちを集めて、役人がつきっきりで監督する。首里からは、とても考えられないほどむずかしい、こんな柄どうしたら織れるのかと茫然とするほどするほど手の込んだ柄見本をつけて指定してくるので、一日かかって一尺も織れない。泣き泣きやっと織り上げて、納めるときには、広場に竿をわたして、一反ずつ反物をかけて、眼鏡をかけた役人が毛ほどのきずも見逃さぬ検査をする。(『沖縄文化論』)
1879年には、明治政府が沖縄県を設置。軍隊と警察を沖縄に派遣し、尚泰王に首里城を明け渡すことを強いて、琉球王国を崩壊させた。「琉球処分」と呼ばれる。
明治政府は那覇に沖縄県庁を置いたので、首里城は政治と外交の中心ではなくなる。
首里城は熊本鎮台沖縄分遺隊の兵舎とされ、1896年まで使用された。1882年に首里城を訪問したイギリスの博物学者ギルマードは、首里城正殿の荒廃ぶりを次のように記録している。
あらゆる装飾品は取り除かれてあった。小壁に掲げられた絵は引きはがされ、ほこりと星霜とで見分けがつかない。半ば腐った畳があちこちに敷いてあるが、床の大部分はむきだしで、穴だらけの床板は腐っている。(以下略)
補足すると、首里城の文化遺産は絶えず失われ続けてきた。首里城は今回をのぞいても、過去に4回は全焼している。15世紀の王位継承の内乱。17世紀と18世紀の失火。そして1945年の沖縄戦である。ほかにも、一部の焼失は何度もあったという。
このほか、1609年には薩摩軍が10日間にわたって城内の宝物を強奪し、戦利品として鹿児島に持ち去った。「琉球処分」の際にも、明治政府は首里城内の膨大な文書類を接収、東京に持ち去る。接収文書は関東大震災で焼失した。
首里城内はその後、沖縄県立首里高等女学校(創立時は首里区立女子実業補習学校)や、首里第一国民学校(創立時は東小学校)などの校舎として使われる。首里市が改変・破壊され老朽化した正殿を取り壊そうとしたこともあるが、識者の反対で中止された。
首里城の正殿や歓会門・瑞泉門・白銀門・守礼門などが国宝に指定されたのは、昭和に入ってまもない1928年から29年にかけてのことだ。首里城にようやく保存のための手が入った。
だが、修理された首里城がその姿をとどめていた時間は長くはなかった。
太平洋戦争末期の1944年3月、沖縄守備隊として日本陸軍第32軍が新設される。守備範囲は奄美大島、徳之島、沖縄本島、宮古島、石垣島、西表島、大東島。微弱な兵力に見合わない広大なものだった。
第32軍は多数の飛行場を急いで建設し、航空部隊でもって、これら南西諸島を防衛するよう命じられた。だが、同年7月にサイパンが陥落。作戦が二転三転した後、第32軍は本土決戦を想定し、米軍をできる限り長く南西諸島に釘づけにする「持久戦」を目的に戦うことになる。
第32軍司令部は当初、安里の蚕種試験場におかれたが、同年の10・10空襲後に、中部、南部いずれの海岸線から米軍が上陸しても戦場の展望がきく、首里へと移転。首里城の地下に、沖縄師範学校の生徒たちや首里市民を動員して、司令部壕が建設される。
1945年4月1日、沖縄本島中部の西海岸に上陸した米軍は南北に分かれて進み、南下する部隊は第32軍司令部のある首里を目指した。
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