山本章子(やまもと・あきこ) 琉球大学准教授
1979年北海道生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士課程修了。博士(社会学)。2020年4月から現職。著書に『米国と日米安保条約改定ー沖縄・基地・同盟』(吉田書店、2017年)、『米国アウトサイダー大統領ー世界を揺さぶる「異端」の政治家たち』(朝日選書、2017年)、『日米地位協定ー在日米軍と「同盟」の70年』(中公新書、2019年)など。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
首里城は沖縄にとってどのような存在だったのか(下)
自民党も、沖縄振興に関する特別委員会に「沖縄戦災文化財等復元に関する小委員会」をつくり、首里城の復元構想を検討する。1970年に初の沖縄選出の衆議院議員となった西銘順治も強く働きかけた。西銘は沖縄返還の翌年、田中角栄内閣の沖縄開発政務次官に任命されていた。その後、1978年の沖縄知事選で自民党・民社党の推薦を受けて当選をはたし、知事として、全額国費での首里城復元を自民党に要請していく。
1982年の第二次沖縄振興計画に、「首里城一帯の歴史的風土を生かしつつ、公園としてふさわしい区域についてその整備を検討する」ことが盛り込まれる。そして、1985年12月に全額国費での首里城復元の実施計画調査費が認められた。
実は、沖縄にはすでに国営海洋博記念公園があることを理由に、大蔵省は「一県に二つの国営公園は例がない」と反発していた。だが、自民党の沖縄戦災文化財復元小委員会の委員長をつとめる植木光教・元沖縄開発庁長官は、「国営記念公園があってそれが二つに分かれる。一つは海洋博地区、もう一つは首里城地区にあると考えればよい」と押し切った。
なぜ自民党は、沖縄からの首里城復元の要望に、これほど積極的に応えたのか。
最大の理由は、返還された沖縄の本土との一体化を進める上で、それを支える保守県政の存在を必要としていたからである。逆にいえば、自民党議員だった西銘順治が沖縄県知事でなければ、全額国費での首里城復元は実現しなかっただろう。
西銘県政は、教育や国防の面で政府の方針との一体化を進めた。たとえば、屋良朝苗知事の革新県政のもとでは、日教組や加盟県教組の反対で見送られてきた(そのため、沖縄は主任制度を実施していない全国で唯一の県だった)、学校の「主任制度」を実施している。
西銘県政はまた、自衛官募集業務も開始した。沖縄県は1979年までは全国で唯一、自衛官募集業務を拒否していた自治体だった。背景にあったのは、沖縄戦の記憶である。日本軍が住民をスパイ容疑で虐殺し、壕や食糧を奪った記憶は、県民の間でまだ生々しく共有されていたのである。
皮肉なことに、日本政府が沖縄返還と同時に自衛隊の沖縄配備を決定、沖縄の世論の56%が反対するなかでこれを実施したことが、沖縄戦における日本軍の記憶を呼び覚ました。沖縄県教職員組合が、『これが日本軍だ』というパンフレットをまとめ、自衛隊は、沖縄戦の日本軍との同質性を持つ存在として認識されていった。
だが、西銘県政は、県議会で保革逆転が生じた1980年、県警機動隊を出動させるほどの混乱をへて、自衛隊募集業務費を可決した。
西銘県政といえば、なんといってもやはり国体の開催だろう。1980年1月、「海邦国体」と呼ばれた沖縄国体の開催が決まる。このとき沖縄県で大きな問題となったのは、日の丸の掲揚と君が代斉唱、そして式典への天皇の出席であった。
文部省の調査によれば、1985年3月の時点で、沖縄県内の小中学校の式典における日の丸の掲揚率は平均6%台。君が代を斉唱する小中学校はゼロだった。県内の高校にいたっては、スポーツ大会や入学式、卒業式には日の丸も君が代も登場しなかった。西銘県政は日本政府と文部省の指導のもと、県内の学校に対して式典の「日の丸・君が代」を遵守するようくり返し強い指導を行っていく。