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首里城の再建をとりまく沖縄の戦後と政治

首里城は沖縄にとってどのような存在だったのか(下)

山本章子 琉球大学准教授

日の丸焼き捨て事件のてんまつ

 こうした西銘県政の日の丸・君が代推進に対して、象徴的な抗議を起こしたのは読谷村である。

 読谷村は沖縄戦で、米軍の本島への上陸地となり、住民の「集団自決」が起きた場所であった。また、読谷村の日本軍飛行場を占拠した米軍は、戦後も読谷補助飛行場としてパラシュート降下訓練に使用。米軍の演習による事故がたびたび発生していた。

 1974年に読谷村長となった元高校教員の山内徳信は、村長室に憲法9条を書いた掛け軸を掲げており、村議会議長とともに、学校での日の丸・君が代に反対する。しかし、1987年の海邦国体で読谷村がソフトボール会場となると、弘瀬勝・日本ソフトボール協会会長は、開会式で日の丸・君が代を実施しなければ、会場を変更すると迫った。

 苦渋の選択を迫られた山内村長は、日の丸の掲揚と君が代の斉唱に合意した。しかし、読谷村を訪れた弘瀬会長と役員、選手団が、遺族らの制止を無視して「集団自決」の起きたチビチリガマを参拝したことが、チビチリガマの生存者への聞き取りを行い、「集団自決」の実態を調査していた知花昌一の怒りに火を付けた。知花は抗議のため、開会式当日、会場に掲揚された日の丸を下ろして焼き捨てる。

天皇の沖縄訪問をめぐって

 西銘知事の悲願は、昭和天皇の沖縄訪問であった。1985年に上京した折、昭和天皇に直接、「是非ご来県され、日本の戦後を終わらせてください」と、国体に合わせた来沖を要請している。だが結局、昭和天皇は体調を崩して国体出席を中止。皇太子夫妻が、名代として出席した。

 後に平成天皇となる皇太子は、1975年に海洋博名誉総裁として沖縄を訪れた際、ひめゆりの塔で火炎瓶を投げつけられていた。それでも、再び沖縄を訪れたのは、琉歌を詠むことができるほど、沖縄に強い関心を持っていたからだという。

 今上天皇である浩宮は、父にすすめられて、ひめゆり学徒隊の生存者、宮良ルリの著書『私のひめゆり戦記』を読んだ。浩宮は、「沖縄の人々は先の大戦を通じ、“命どぅ宝”の思いをいよいよ深くしたと聞いているが、この平和を求める痛切な叫びが国民すべての願いとなるよう切望している」と、感想を述べている。

拡大第42回国民体育大会(海邦国体)秋季大会に出席のため沖縄県を訪れ、沖縄平和祈念堂前で、歓迎の人たちに手を振る皇太子さまと美智子さま(当時)。隣は西銘順治・沖縄県知事=1987年10月24日


筆者

山本章子

山本章子(やまもと・あきこ) 琉球大学准教授

1979年北海道生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士課程修了。博士(社会学)。2020年4月から現職。著書に『米国と日米安保条約改定ー沖縄・基地・同盟』(吉田書店、2017年)、『米国アウトサイダー大統領ー世界を揺さぶる「異端」の政治家たち』(朝日選書、2017年)、『日米地位協定ー在日米軍と「同盟」の70年』(中公新書、2019年)など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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