大野博人(おおの・ひろひと) 元新聞記者
朝日新聞でパリ、ロンドンの特派員、論説主幹、編集委員などを務め、コラム「日曜に想う」を担当。2020年春に退社。長野県に移住し家事をもっぱらとする生活。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
冷戦終結30年、エマニュエル・トッド氏に聞く
30年前の1989年11月9日、ベルリンの壁が開放された。壁が象徴していたソ連・東欧の共産主義独裁体制も、その年崩壊へと向かい、戦後の世界を東西に二分してきた冷戦体制が終わった。世界はこれから民主主義と市場経済によって平和で豊かな時代に入る。多くの人はそう楽観していた。
しかし今、民主主義も市場経済も疑問符を突きつけられている。結局、それらはエリートや特権階級を利するだけで不平等を拡大するばかりの仕組みでしかなかったのではないかと。人々が抱く不満に左右のポピュリストがつけいる。30年前の期待はすっかり色あせてしまった。
フランスの人類学者・歴史学者、エマニュエル・トッド氏は、早くからソ連という体制の限界を指摘し、その解体を予測していた。慧眼の知識人は、20世紀の大きな節目からの30年をどう見ているのか。パリの自宅で聞いた。
――30年前にベルリンの壁が崩れたとき、多くの人は民主主義と市場経済によって世界は安定すると思いました。歴史の終わりという言葉さえ話題になりました。
歴史家の私にすれば、歴史が止まるというのはバカバカしい考えです。人間が登場してから人類の歴史はつねに変化であり不均衡の連続でした。それが進歩だったり対立だったりをもたらしてきました。その表現を最初に使ったフランシス・フクヤマ氏もほんとうに歴史が止まると思ったわけではないでしょう。
――ソ連の崩壊を早くから予測していたあなたは30年前の出来事をどう見ていましたか。
共産主義体制の崩壊それ自体はけっこうなことだと思いました。たとえばハンガリーにも友人がいますが、自由になって新しい本も出せるようになった。東欧の経済も効率的になるし、強権で支配していたソ連も崩壊した。だから、これからものごとはよくなる一方だろうと思える時期は確かにあった。
でも、私が驚くのは、共産主義圏崩壊との向き合い方のまずさです。
――どういう点でまずかったのでしょう。
それは実際の次元でもそうだし倫理的にもそうでした。とくに倫理的な次元でほんとうに衝撃を受けました。
ロシア人たちはある意味でエレガントに共産主義体制から抜け出したのです。これは(当時のソ連共産党書記長)ゴルバチョフ氏の偉大な功績です。ロシア人たちは戦車をほかの国に送ることを拒み、旧東欧諸国の解放を受け入れました。ソ連の解体さえも受け入れた。バルト3国の独立も認めた。
加えて、ウクライナの独立さえ受け入れたのですよ。ウクライナは歴史的、文化的にロシアとつながりの深い国です。たとえばロシア語で書いたゴーゴリもウクライナ人です。
けれども、ロシア人はすぐに西側欧州と米国に裏切られました。共産主義体制の崩壊後、欧米はロシアにネオリベラリズムの助言者を送り込みました。彼らはロシアに間違った助言をしたのです。彼らの助言はロシア国内に混乱を招いただけでした。
――たしかに当時、共産主義システムに勝った市場経済システムを導入すれば何もかもうまくいくといった空気がありました。
けれどもロシア人にとって、共産主義は経済的なシステムにとどまらない、一種の信仰でもありました。だから共産主義の崩壊は、経済的な混乱だけでなく、心理的な迷走も招いてしまいました。
にもかかわらず、とくに米国はそんなロシアに寛大ではなかった。そして、共産主義崩壊について、それはネオリベラリズムがすぐれていることの証拠だと誤って解釈しました。当時のレーガン米大統領とサッチャー英首相は、共産主義の崩壊を、文明化されていない資本主義、ネオリベラリズム、ヒステリックな資本主義の勝利だと考えてしまったのです。
そして、それがあらゆる種類の行き過ぎにつながりました。
――たとえば?
まず戦略面、軍事面です。つまり、米国は北大西洋条約機構(NATO)の境界を東に広げないと言っていました。しかし実際は戦略的な優位を可能な限りおしすすめて、結局ロシアを囲い込んでしまった。
あまり知られていないけれど、それはかなりのところまできている。今や、おかしなことにだれもがロシアを責めるけれど、米国とその同盟国の軍事基地のネットワークを見てみると、囲い込まれているのはロシアです。