沖縄の「アイデンティティの象徴」は本土の人間に何を語りかけてきたのか
2019年11月12日
10月31日の朝、電源を入れたテレビの映像に言葉を失った。
首里城が真っ赤に燃えていた。
どのチャンネルも首里城火災を報じていた。嘘であって欲しい、被害が軽微であって欲しいという願いもむなしく、正殿が崩れ落ちる映像にそれ以上見ていられなくなり、電源を切った。
仕事のために向かった那覇市中心部の久茂地では沖縄タイムス社や琉球新報社が号外を配っていた。真っ赤に燃える首里城の写真、全焼の文字。道ゆく人びとがみなその手に号外を持ち、見つめていた。
いつもは体操やスーパーのチラシ紹介をウチナーグチを交えて楽しく伝える昼前のローカル番組では、司会を務める女性漫才コンビ「泉&やよい」の二人が厳しい表情で首里城の最新情報を伝え、視聴者からのメッセージを涙ながらに読み上げていた。
テレビのニュース番組では、沖縄の象徴が焼けたと涙ぐむ若者、戦争中と今回の火災で二度も首里城が焼けるのを見ることになった母親を心配して一緒に首里城を訪れた男性がインタビューに答えていた。
沖縄中が首里城を失ったことを受け止めきれないでいる、そんな雰囲気に包まれていた。
歴史的建造物が好きでたびたび首里城を訪れていた私も、燃えてしまった建築物や貴重な文化財のことを思うと胸が潰れそうだった。職場では号外を読みながら、本土出身の同僚と残念だ、勿体ないなどと言葉を交わした。
けれども、沖縄出身の同僚には結局一言も首里城の話をすることはできなかった。
その時はなぜなのか考えもしなかったが、改めて考えてみると沖縄の人が感じている痛みと自分の悲しさは異なるものであり、その痛みは本土出身者の私が軽々に共有できるものでないことを自然に感じていたのだと思う。
ゆえに、ここで沖縄の人の痛みを語るつもりはない。代わりに首里城が今に至るまで本土の人間に語りかけてきたことを考えてみたい。
私が初めて首里城を訪れたのは7年前。沖縄に転居してまもない頃だ。
本土の城の石垣とは違い緩やかな弧を描く首里城の石垣。復元されて間もない箇所は琉球石灰岩に独特のクリーム色で、沖縄の強い陽射しを受けて目が痛いほどの光を放っていた。
幾つもの門をくぐり、正殿の前に立つ。赤と白の縞模様の御庭を囲むように建つ中国風の朱色の漆塗りの正殿と北殿、そして塗装されていない日本風の建築の南殿が建っていた。
その姿を見て、なんの引っかかりもなくストンと理解できることがあった。この島には日本の本土とは全く異なる文化と統治機構を持った琉球という国があった、ということだ。
私に限らず日本本土から訪れる多くの観光客は、中国と日本からの文化的影響を受けつつも、そのどちらとも異なる首里城の独特の姿に、歴史的論争を挟む余地もなく琉球国の存在を感覚として理解してきたのではないだろうか。
さらに目の前にある首里城が1992年に復元されたものだという事実から、訪れる人は否応なくその歴史と向き合うことになる。
かつての首里城には代々琉球国の国王やその家族が居住していた。しかし1879年3月27日、明治政府の命を受けて武装警官や熊本鎮台兵とともに首里城に入った松田処分官が琉球国の廃滅と廃藩置県の命を下し、29日、琉球国最後の国王である尚泰王はこの城から去る。ここに琉球国はその歴史に幕を閉じた。
主を失い、荒れ放題になっていた首里城は、1925年にその文化的価値を認められ日本の国宝に指定されて正殿の大改修も行われた。
しかし太平洋戦争中、日本軍は首里城の地下に大規模な地下壕を掘り、陸軍第32軍の司令部を置いた。その結果、首里城は1945年の沖縄戦において米軍から徹底的に攻撃され、跡形もなく焼失した。
戦後は琉球大学のキャンパスとなっていたが、沖縄の本土復帰20周年を記念する国の事業として復元された。
首里城が辿ったこの歴史を通じて、訪れる人は単に琉球国の存在だけではなく、琉球国が明治政府の琉球処分によって失われたこと、そして沖縄を本土防衛の最後の拠点と定めた日本軍と米軍との間で激しい戦闘が繰り広げられた沖縄戦のために、この城は再び沖縄の人びとから奪われた、という苦い事実を知ることになる。
角度を変えて言えば、首里城は日本がこの島から奪ったものの大きさ、美しさを突きつける存在でもあった。
日本がこの島から奪ったもの、それは形あるものばかりではない。文化の根幹をなす言語もまた、奪われたものの一つだ。
それにはっきりと気付かされたのは今年の6月23日、沖縄・慰霊の日のことだった。
糸満市摩文仁で行われた「沖縄全戦没者追悼式」で玉城デニー県知事は安倍首相など日本政府の要人が居並ぶ前で史上初めて日本語、沖縄のしまくとぅば、英語の三言語で平和宣言を読み上げた。
しまくとぅばの箇所は短いものだったが、会場には一段と大きな拍手と「ヤサッ」という合いの手、指笛が響いた。はっきりとは意味を理解できないしまくとぅばの宣言を聞きながら、私は深い感慨を覚えていた。
明治政府は琉球処分の翌年には日本語を普及させるために「会話伝習所」を設立、続いて次々と小学校を作った。その後、日本語の普及のために学校でのしまくとぅばの使用は禁止され、使ったものには罰として「方言札」と書かれた札を首から掛けさせることもあった。
皇民化教育によって使用が禁じられたしまくとぅばは、戦争中には更に「処分」の対象となった。沖縄戦の最中の1945年4月には首里城地下の日本軍司令部から「沖縄語ヲ以テ談話シアル者は間諜トミナシテ処分ス」という指示が出されている。その「処分」が時に殺害を意味していたことは、戦争体験者の多くの証言から明らかだ。
そのような歴史の中でことばは奪われていった。
2016年(平成28年)度の沖縄県の調査によれば、70代ではしまくとぅばを主に使う、または共通語と同程度使う割合が7割を超しているが、60代になると使わない、または挨拶程度にしか使わない人が5割を超し、10代ではその割合は9割を超える。
玉城デニー知事は60歳。世代を考えれば、もし今回玉城知事がしまくとぅばでの平和宣言を行なっていなければ、次世代の知事が行うことはなかっただろう。
しまくとぅばでの平和宣言を知事のパフォーマンスとする見方もあるだろう。しかし島のことばが奪われてきた歴史を思えば、それはこの地にかつて共通語とは別の言語が存在し、今も存在していることの高らかな宣言であり、長い時間をかけて再びしまくとぅばが沖縄の人びとの言語として取り戻された瞬間だったとも言える。
私はそのことに心を揺さぶられつつ、一方で本土の人間として日本がこの島から奪ったものの大きさを噛み締めた。
沖縄では、奪われたもの、失われたものを取り戻すためのたたかいがずっと続いている。しまくとぅば、安全で静かな空、安全な水、先祖が眠る土地、辺野古の海。今回そこに首里城が加わることになる。
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