メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

news letter
RSS

首里城焼失で沖縄の人びとが共有したもの

沖縄の「アイデンティティの象徴」は本土の人間に何を語りかけてきたのか

阿部 藹 琉球大学客員研究員

日本がこの島から奪ったものを突きつける存在

 私が初めて首里城を訪れたのは7年前。沖縄に転居してまもない頃だ。

 本土の城の石垣とは違い緩やかな弧を描く首里城の石垣。復元されて間もない箇所は琉球石灰岩に独特のクリーム色で、沖縄の強い陽射しを受けて目が痛いほどの光を放っていた。

 幾つもの門をくぐり、正殿の前に立つ。赤と白の縞模様の御庭を囲むように建つ中国風の朱色の漆塗りの正殿と北殿、そして塗装されていない日本風の建築の南殿が建っていた。

 その姿を見て、なんの引っかかりもなくストンと理解できることがあった。この島には日本の本土とは全く異なる文化と統治機構を持った琉球という国があった、ということだ。

 私に限らず日本本土から訪れる多くの観光客は、中国と日本からの文化的影響を受けつつも、そのどちらとも異なる首里城の独特の姿に、歴史的論争を挟む余地もなく琉球国の存在を感覚として理解してきたのではないだろうか。

 さらに目の前にある首里城が1992年に復元されたものだという事実から、訪れる人は否応なくその歴史と向き合うことになる。

 かつての首里城には代々琉球国の国王やその家族が居住していた。しかし1879年3月27日、明治政府の命を受けて武装警官や熊本鎮台兵とともに首里城に入った松田処分官が琉球国の廃滅と廃藩置県の命を下し、29日、琉球国最後の国王である尚泰王はこの城から去る。ここに琉球国はその歴史に幕を閉じた。

 主を失い、荒れ放題になっていた首里城は、1925年にその文化的価値を認められ日本の国宝に指定されて正殿の大改修も行われた。

 しかし太平洋戦争中、日本軍は首里城の地下に大規模な地下壕を掘り、陸軍第32軍の司令部を置いた。その結果、首里城は1945年の沖縄戦において米軍から徹底的に攻撃され、跡形もなく焼失した。

 戦後は琉球大学のキャンパスとなっていたが、沖縄の本土復帰20周年を記念する国の事業として復元された。

 首里城が辿ったこの歴史を通じて、訪れる人は単に琉球国の存在だけではなく、琉球国が明治政府の琉球処分によって失われたこと、そして沖縄を本土防衛の最後の拠点と定めた日本軍と米軍との間で激しい戦闘が繰り広げられた沖縄戦のために、この城は再び沖縄の人びとから奪われた、という苦い事実を知ることになる。

 角度を変えて言えば、首里城は日本がこの島から奪ったものの大きさ、美しさを突きつける存在でもあった。

全ジャンルパックなら本の記事が読み放題。


筆者

阿部 藹

阿部 藹(あべ あい) 琉球大学客員研究員

1978年生まれ。京都大学法学部卒業。2002年NHK入局。ディレクターとして大分放送局や国際放送局で番組制作を行う。夫の転勤を機に2013年にNHKを退局し、沖縄に転居。島ぐるみ会議国連部会のメンバーとして、2015年の翁長前知事の国連人権理事会での口頭声明の実現に尽力する。その後仲間と共に沖縄国際人権法研究会を立ち上げ、沖縄の諸問題を国際人権法の観点から分析し情報発信を行っている。2017年渡英。エセックス大学大学院にて国際人権法学修士課程を修了。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

阿部 藹の記事

もっと見る