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小沢一郎 試練の15年

(21)細川政権崩壊~民主党政権誕生。試行錯誤の日々を小沢一郎はどう歩んだのか

佐藤章 ジャーナリスト 元朝日新聞記者 五月書房新社編集委員会委員長

政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である(マックス・ヴェーバー『職業としての政治』岩波文庫)

 27歳の時から生涯を貫いてこんな「政治」の力仕事を続けている小沢一郎にも、当然「試行錯誤」の時代がある。

 試行錯誤。英語で言えばTrial and Errorだ。使命感に基づいて何度も何度もトライを繰り返すがその度にエラーの表示に阻まれる。

 成功の時代の後に訪れる試行錯誤の時代。例えば1993年に成立した細川護煕政権が翌94年に倒れてから、二度目の政権交代となった2009年の民主党政権成立までの歳月がそれに当たる。

 2019年の現在は、小沢にとっても日本国民にとっても大変な試行錯誤の時代に当たっている。内政外交ともに分厚い壁にぶち当たった今、このままの政治体制が許されるとは良識ある国民はほとんど考えていないだろう。

 「もう一回舞台を回さないといけない」

 試行錯誤の時代を我々とともに生きる小沢は今、3度目の大きいトライを試みつつある。その政治行動は「堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業」だが、小沢が背負う使命感がその難作業を支え続けている。

 1994年に細川政権が倒れた後、どのような試行錯誤の時代があったのか、小沢の話に耳を傾けよう。

盟友・羽田孜と闘った新進党党首選

 1994年4月、細川内閣が総辞職した後を継いで羽田孜政権が成立。しかし羽田内閣はわずか2か月で総辞職、続いて村山富市社会党委員長を首班とする「自社さ」政権が誕生した。自民党から離党した海部俊樹を首班候補に立てて自社さに対抗、僅差で敗れた小沢たちは、同年12月、新生党や日本新党、公明党、民社党などを合同させて新進党を結党した。海部が初代党首、小沢が幹事長に就いた。95年7月の参院選で躍進したが、96年10月、初めての小選挙区比例代表並立制の総選挙で敗れ、翌97年12月に解党。小沢たちはさらに98年1月、自由党を結成した。

――羽田孜さんの内閣が短期間で総辞職した後、社会党の村山富市さんが首班の自社さ政権ができます。自社さ政権に敗れた小沢さんたちはその後、野党勢力を大きく合同させて新進党を作りました。結成1年後の党首選挙では盟友の羽田さんと戦って党首となりました。

小沢 ぼくはその党首選には全然出る気がなかったんです。ぼくは別に、人を押しのけてでも党首になるという気はありませんでした。羽田さんがやりたければ羽田さんがやればいいとぼくは言っていたんです。だけど、羽田さんは、羽田さんをたきつける人たちに囲まれてしまったんですね。それでぼくは羽田さんに「これまでのように羽田代表、小沢幹事長の体制でいいじゃないか」と言ったんだけど、だめだったんです。

 本当に何度言ってもだめだった。党首選の前に、渡部恒三さんも間に入って「仲間うちでそんな馬鹿な選挙はやめよう」と羽田さんを説得してくれたんだけど、羽田さんは言うことを聞かなかった。羽田さんは周りの取り巻きにおだてられてしまったんですね。

――それで、小沢さんの周りの方々も、小沢さんに立ってほしいということになったわけですか。

小沢 はい。ぼくも最後まで「いやだ、いやだ」と言っていたんだけど、そうもいかなくなってしまったんですね。羽田さんの取り巻きの人たちが最初からいた人たちでなくなってきて、これではしようがないな、と思ったんです。

新進党党首選の立候補届け出を終え、共同出陣式で握手する羽田孜副党首(左)と小沢一郎幹事長=1995年12月16日、東京・虎ノ門の新進党本部

――羽田さんの本心というのは、どういうところにあったんでしょうか。

小沢 どうということはないでしょう。別に何もないと思いますよ。

――やはり本来は小沢さんのアドバイスを聞いておけばよかったんだけど、一応首相にはなりました。しかし、在任期間があまりにも短く、最後はちょっとみじめな辞め方をして、そういうことが心の中に引っかかっていたんでしょうか。

小沢 それはあったかもしれない。それから、もう一度首班指名されたいということがあったかもしれません。取り巻きがおだてていたんだと思いますね。

――そして党首選の結果小沢さんが勝って党首となったわけですが、それ以降羽田さんが協力しなくなってしまったんですよね。

小沢 そうですね。興志会というものを作って、ぼくが羽田さんにいくら執行部に入ってほしいと言っても入らなかったですね。

――それと同時に細川護煕さんも協力しなくなったのですか。

小沢 いや、細川さんはぼくと羽田さんとどちらをということではなく、直接執行部の中には入らなくなった感じでしたね。

――結果的に羽田さんが96年12月に、細川さんが97年6月に新進党を抜けていきました。

小沢 そうですね。興志会とかそういう分裂的な形になってしまったために、総選挙で負けてしまいました。

岡田克也の離反

 1996年10月20日の初めての小選挙区比例代表並立制選挙では、新進党は4議席減の156議席に留まった。このため、単独過半数に届かなかった自民党は自社さ政権を維持、橋本龍太郎政権の継続となった。

 分裂のような格好になってしまったからね。選挙はその結果です。たしか1万票以内で70選挙区負けました。しかし、あの選挙は本当は絶対に勝てる選挙でした。もう一回政権を取れたんです。みんな目先のことで大きなチャンスを逃がしているんです。

新進党の結党大会。テープが飛び、党名を書いた帆布が客席を覆うパフォーマンスで締めくくられた=1994年12月10日、横浜市の国立横浜国際会議場

 ――そして97年12月に新進党を解党します。これは、もう一回心機一転、同志を集め直す必要があると考えた結果だったんでしょうか。あるいは現実的に言うと、本来は一緒になるはずの公明党が一緒にならないということが原因だったのでしょうか。

小沢 新進党の出直し解党の理由としては、総選挙の後、細川さんと羽田さんから新進党を離党したいと告げられたことが一番の理由です。当然、その後の公明党の問題も原因としてありました。公明党についていえば、ぼくは一つの政党を作ろうとしたんですが、公明党はあくまでも公明党を残すと言うんです。創価学会には「それはおかしいじゃないか。では、どうしてもと言うのなら参議院だけ公明党を残すということではどうか。衆議院は一緒になろう」と話したんですが、最後までどうしても譲らなかったんですね。それで、解党以外にないじゃないか、となったんです。

――そうですか。後に民主党代表に就く岡田克也さんはこの時新進党の議員でしたが、小沢さんのこの新進党解党の件が原因となって小沢さんと分かれていったようですね。

 岡田克也は通産官僚から自民党議員になり、小沢とともに新生党、新進党と行動をともにした。しかし新進党解党後、小沢とは別の道を歩んで自由党には行かず、国民の声、民政党とたどり、民主党に行き着いた。民主党代表となったが、2005年の総選挙敗北の責任を取って代表を辞任した。
 岡田のホームページ(2006年8月13日)には「点検・小沢民主党(6)」という連載記事の中で、次のような記述がある。『岡田は、2大政党制の実現を目指し、93年に小沢と共に自民党を飛び出し、新進党の結党でも行動を共にした。だが、党首だった小沢が唐突に解党を決めた97年の新進党両院議員総会で、小沢に激しくかみついた。/「納得できない。新進党と(投票用紙に)書いた有権者への裏切りだ」/当時を知る議員は「岡田さんには、民主党が新進党の二の舞いになることへの警戒感がある。だから、言うべきことはきちんと言おうとしている」と解説する。/岡田は今、小沢と個人的に会うことはない』

小沢 その件は、「何とかしてみんなを率いてほしい」という要望があったから、ぼくは「いいよ」と言っていたんです。だけど、岡田さんは議員総会で「みんなを受け容れてほしい」という意味合いのことを質問したんですね。だけど、議員総会でそう聞かれれば、「どこでどうするかは自分で決めることでしょう。政治家なんだから、私が来いとか来るなとか言う話ではないだろう」と言ったんです。

 要するに「自分で判断してください。私にいちいち聞くべき問題ではない」ということを言ったんです。岡田さんとしては、「君たちも一緒にやろう」と言ってもらいたかったんでしょう。しかし、議員総会ですから「それぞれみなさんで判断してください」としか言いようがないでしょう。

――なるほど。岡田さんとしては、その言い方が自分たちを受け入れてくれないというような感じに聞こえたのかもしれませんね。

小沢 そういう感じに受け取られたかもしれません。でも、そんなことはないんです。一緒にやりたいって言うならぼくは一緒にやるんです。

――岡田さんにこだわるようですが、伏線というようなものはなかったのですか。岡田さんが羽田さんに肩入れしていたとか。

小沢 それはないと思います。岡田さんは自分本位の政治的な底意があって動くような人ではないですから。

――なるほど。しかし、岡田さんと言えば、この本のインタビューで小沢さんは面白いエピソードを語っています。

自民党と同じなら自民党でいい

 民主党代表だった岡田克也さんは僕に「民主党の政策に自民党と重なり合う部分が多いほど、国民は安心して民主党に政権をまかせる」と言ったことがある。僕は「その考えにはまったく反対だ。それは『55年体制』の考え方だ。何もかもが全会一致で運んでこられた時代はそれでよかった。だけど、今やそれが壁に突き当たって、にっちもさっちも行かなくなっているんだから、我々は旧来の自民党的、官僚的な手法や発想とはまったく違った理念や政策を打ち出さなければならない。自民党と同じでいいなら、何のために民主党が存在するんだ。そんなことでは絶対に選挙で負けるぞ」と言った。(五百旗頭真ほか『90年代の証言 小沢一郎 政権奪取論』朝日新聞社)

――これは覚えていますか。

小沢 もちろん。ずっと年来言い続けているんだ。そんなことは当たり前だと思います。自民党と同じなら自民党でいい。他の政党は要らないということになります。岡田さんにもそういうようなことは言いました。その考え方は結局、官僚ののりしろの手の上で踊っているだけの話です。現状維持にしかなりません。
 そういう感覚でいる限り政権は取れないと思います。民主党も、自民党と手を結んで消費税増税をやるから潰れてしまいました。増税をやるならやるで、国民との約束に基づいて、民主党の責任でやらなければいけない。ぼくはそう思っています。みんな旧体制の意識のままなんじゃないかと思いますね。

 それでは幕藩体制のままなんです。それでは明治維新はできない、文明開化の世は来ないとぼくは言ってるんです。

――明治維新という言葉が出てきたのでちょっとうかがいますが、小沢さんは明治維新について「西郷隆盛と大久保利通がいたから維新ができた」とよく言及されますね。その点で大久保についてはしばしば高く評価されていると思いますが、西郷についてはどう捉えていますか。

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