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小沢一郎 試練の15年

(21)細川政権崩壊~民主党政権誕生。試行錯誤の日々を小沢一郎はどう歩んだのか

佐藤章 ジャーナリスト 元朝日新聞記者 五月書房新社編集委員会委員長

盟友・羽田孜と闘った新進党党首選

 1994年4月、細川内閣が総辞職した後を継いで羽田孜政権が成立。しかし羽田内閣はわずか2か月で総辞職、続いて村山富市社会党委員長を首班とする「自社さ」政権が誕生した。自民党から離党した海部俊樹を首班候補に立てて自社さに対抗、僅差で敗れた小沢たちは、同年12月、新生党や日本新党、公明党、民社党などを合同させて新進党を結党した。海部が初代党首、小沢が幹事長に就いた。95年7月の参院選で躍進したが、96年10月、初めての小選挙区比例代表並立制の総選挙で敗れ、翌97年12月に解党。小沢たちはさらに98年1月、自由党を結成した。

――羽田孜さんの内閣が短期間で総辞職した後、社会党の村山富市さんが首班の自社さ政権ができます。自社さ政権に敗れた小沢さんたちはその後、野党勢力を大きく合同させて新進党を作りました。結成1年後の党首選挙では盟友の羽田さんと戦って党首となりました。

小沢 ぼくはその党首選には全然出る気がなかったんです。ぼくは別に、人を押しのけてでも党首になるという気はありませんでした。羽田さんがやりたければ羽田さんがやればいいとぼくは言っていたんです。だけど、羽田さんは、羽田さんをたきつける人たちに囲まれてしまったんですね。それでぼくは羽田さんに「これまでのように羽田代表、小沢幹事長の体制でいいじゃないか」と言ったんだけど、だめだったんです。

 本当に何度言ってもだめだった。党首選の前に、渡部恒三さんも間に入って「仲間うちでそんな馬鹿な選挙はやめよう」と羽田さんを説得してくれたんだけど、羽田さんは言うことを聞かなかった。羽田さんは周りの取り巻きにおだてられてしまったんですね。

――それで、小沢さんの周りの方々も、小沢さんに立ってほしいということになったわけですか。

小沢 はい。ぼくも最後まで「いやだ、いやだ」と言っていたんだけど、そうもいかなくなってしまったんですね。羽田さんの取り巻きの人たちが最初からいた人たちでなくなってきて、これではしようがないな、と思ったんです。

拡大新進党党首選の立候補届け出を終え、共同出陣式で握手する羽田孜副党首(左)と小沢一郎幹事長=1995年12月16日、東京・虎ノ門の新進党本部

――羽田さんの本心というのは、どういうところにあったんでしょうか。

小沢 どうということはないでしょう。別に何もないと思いますよ。

――やはり本来は小沢さんのアドバイスを聞いておけばよかったんだけど、一応首相にはなりました。しかし、在任期間があまりにも短く、最後はちょっとみじめな辞め方をして、そういうことが心の中に引っかかっていたんでしょうか。

小沢 それはあったかもしれない。それから、もう一度首班指名されたいということがあったかもしれません。取り巻きがおだてていたんだと思いますね。

――そして党首選の結果小沢さんが勝って党首となったわけですが、それ以降羽田さんが協力しなくなってしまったんですよね。

小沢 そうですね。興志会というものを作って、ぼくが羽田さんにいくら執行部に入ってほしいと言っても入らなかったですね。

――それと同時に細川護煕さんも協力しなくなったのですか。

小沢 いや、細川さんはぼくと羽田さんとどちらをということではなく、直接執行部の中には入らなくなった感じでしたね。

――結果的に羽田さんが96年12月に、細川さんが97年6月に新進党を抜けていきました。

小沢 そうですね。興志会とかそういう分裂的な形になってしまったために、総選挙で負けてしまいました。

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筆者

佐藤章

佐藤章(さとう・あきら) ジャーナリスト 元朝日新聞記者 五月書房新社編集委員会委員長

ジャーナリスト学校主任研究員を最後に朝日新聞社を退職。朝日新聞社では、東京・大阪経済部、AERA編集部、週刊朝日編集部など。退職後、慶應義塾大学非常勤講師(ジャーナリズム専攻)、五月書房新社取締役・編集委員会委員長。著書に『ドキュメント金融破綻』(岩波書店)、『関西国際空港』(中公新書)、『ドストエフスキーの黙示録』(朝日新聞社)など多数。共著に『新聞と戦争』(朝日新聞社)、『圧倒的! リベラリズム宣言』(五月書房新社)など。

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