核兵器廃絶を訴える教皇の訪問で浮かびあがる「ナガサキ」とは何なのかという問い
2019年11月13日
世界中に12億人の信者を擁するカトリックの総本山、ローマ法王庁=バチカンの第266代ローマ教皇フランシスコが11月24日、被爆地である長崎と広島を訪問する。被爆地について語る時、一般的には「広島、長崎」という言い方をする。しかし、今回、教皇は広島に行く前にまず長崎に入り、爆心地公園(長崎市松山町)に立つ予定だ。興味深いのは、そこが平和公園ではなく、爆心地公園であることだ。被爆地としての長崎の「いま」を考えるうえで重要な場所だからである。
長崎は、日本のカトリック信仰の中心地である。歴史的にローマとの関係は長く、深い。日本では江戸時代から明治時代初頭にかけて、250年間にわたりカトリックの信仰が禁圧されたが、その間、潜伏キリシタンとして信仰を守り通した物語は、世界にも例を見ないと言われる。
とりわけ信者が多かったのが、長崎市の北のエリアにあたる浦上地区。広島に続く2発目の原爆は、その浦上に投下され、8500人(いまだに正確な人数は不明)とも言われる数の信徒が犠牲となった。中心的教会だった浦上天主堂も瓦解した。
教皇フランシスコは2013年に就任して以来、核兵器廃絶を訴え、バチカン市国は国連で2017年に採択された核兵器禁止条約をすでに批准している。教皇にとって長崎は、「カトリック」と「核兵器」という二つの重要なテーマが交錯する場所ということになる。
長崎では2018年、「長崎と天草の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に登録された。はからずも同じ年、潜伏キリシタンの末裔(まつえい)で、五島列島出身の前田万葉・大阪大司教が教皇を補佐する枢機卿に任命されている。
前田枢機卿は、「教皇は核兵器について、つくることも倫理に反すると考えている」と言う。これは、核兵器の使用はもとより、製造そのものを否定する核兵器禁止条約の理念に沿う考え方だ。今回の訪日で、「教皇は、メッセージにそのあたりのことまで織り込むかもしれない」。前田枢機卿は慎重に言葉を選びながらもそう語る。
被爆国でありながら、核兵器禁止条約の批准どころか、交渉にも参加しなかった日本政府。被爆者は、核兵器廃絶に関して、世界に本気で訴え、国際世論をリードする姿勢が見えない安倍政権に、いら立ちと失望を感じている。
そんななか、教皇は長崎でどのようなメッセージを発するのか、被爆者やカトリック関係者のみならず、多くの長崎市民もまた、高い関心を持っている。
筆者が注目したいのは、教皇が訪れる場所だ。
38年前、長崎を訪れたヨハネ・パウロ二世は、観光客なら必ず立ち寄る平和公園―同公園には長崎原爆のシンボルのようになっている平和祈念像がある―に行かなかった。理由について教皇自身の口からは明確には語られていないが、当時の長崎市長で自身もカトリック信者だった本島等氏(故人)は、「キリスト教が偶像崇拝を禁じていることが影響している」という見方を示していた。
今回の教皇フランシスコも平和公園には行かない。だが、隣接する爆心地公園(松山町)を訪れる。そして、原爆落下中心地碑に献花し、核廃絶のメッセージを読み上げる予定だ。この意味は大きい。
なぜなら、被爆地公園は、原爆の爆発点直下でありながら、常に平和公園の陰のような存在でありつづけてきたからだ。
毎年8月9日の長崎原爆の日には、平和公園で被爆者や遺族はもちろん、首相や閣僚、外国の要人を迎えて平和祈念式典が厳かに挙行される。式典は平和祈念像に正対する構図である。
祈念像は、公園の北側にあり、顔と身体の前面は南側を向いている。その像に正対する式典参加者は、当然のことながら北側を向いて席に座り、背中を南側に向けることになる。南側の、道一つ隔てたところに爆心地公園がある。つまり平和を祈る式典参加者は、爆心地公園に背を向けていることになる。
祈念像の完成は1955年。当時、カトリック関係者だけでなく市民からも、「あの像は平和となんの関係もない」「祈る気持ちにならない」との批判があった。作者は長崎市出身の著名な彫刻家、北村西望。戦前から武将などの像を多く制作。筋骨隆々の祈念像を視(み)れば、その造形のスタイルが受け継がれていることは明らかだ。
平和祈念式典が暗黙のうちに示しているのは、爆心地よりも、原爆とは直接関係のない「偶像」のある場所の方が重く位置付けられるというメッセージである。だが、その奇妙さについて論じられた形跡を、私はほとんど見かけたことがない。それだけ平和祈念像の彫刻としての力がある、ということでもあるのだろうか。
式典の日、二つの公園では、きわめて対照的な光景が繰り広げられる。
祈念式典は、当然のことながら厳粛な空気が張り詰める。一方の爆心地公園では、核兵器廃絶と、それに熱心ではない現政権や首相を批判する労組、原発も含めた反核を掲げる市民団体などの集会が開かれる。労組の幟(のぼり)が立ち、ハンドマイクで主張する声が響く。
この数年はそうした人たちも少なくなり、かつてほどの喧噪(けんそう)はなくなったものの、わずか100メートルほどの距離の中に、対照的な光景が展開されるのである。平和公園は「祈り」、爆心地公園は「主張」の場として、あたかも役割分担があるかのように分断されている。
それは、表面が黒御影石(当初は貴蛇紋岩)、高さ7メートルの三角柱の「原子爆弾落下中心地碑」である。
平和公園に祈念像以外にも多数建てられた具象的な石像と異なり、爆心地公園にあるこの抽象的な碑は異彩を放っている。建てられたのは1956年。祈念像が完成した1年後だ。建造年はほぼ同じなのに、公園の存在感の違いと同様、公園の中心となる建造物の印象も格段に違っている。
祈念像の前では、ピースサインに笑顔で集合写真に収まる団体は日常的な光景である。中には、一斉に跳び上がって歓声を上げるアジア系の観光客を見かけることがある。一方、偶像とは正反対の中心地碑の前では、高い抽象性を持つがゆえに、宗教も国籍も越え、無言で頭を垂れる人の姿が見られる。
もし、計画通りに実行されていたら、平和公園の祈念像と対を成す具象の母子像が爆心地公園の中心地にも居座るはずだった。それは、被爆に関わる二つの公園の中核的モニュメントを、彫刻家の師弟の作品で独占するということでもある。
中心地のモニュメントとしては撤回された巨大な母子像は、いま爆心地公園の西の端に置かれている。その像の前で祈りを捧げる人の姿はまず見かけない。
結果的に中心地碑は残った。だが、長い間、制作者の名前すら忘れさられていた。それが中心地碑の撤去反対運動に関わった長崎大学教授、井川惺亮氏によって判明したのが2001年。作ったのは、当時20歳そこそこの青年、松雪好修氏。長崎市の建設会社の設計士で、中心碑のコンペに応募した。
松雪氏との出会いの顛末(てんまつ)と松雪氏の制作の意図を、井川氏は月刊『あいだ』79号(2002年)に記している。それによると、松雪氏は、「原爆を落としたB29爆撃機を三角形の頂点に、爆撃の広がりを底面に表現した」。中心地碑は正対すると平な面しか見えない。これが松雪氏が言う底面に当たる。あえて底面を正面にし、そこに平和の広がりを託したのだという。
爆心地公園をめぐっては、納得のいかないことがまだある。
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