冷戦が閉じ込めていたナショナリズムとグローバリズムという猛獣が暴れるなかで……
2019年11月17日
11月9日はベルリンの壁崩壊から30周年の日であった。すぐに思い出すのは、宮沢喜一・元首相が当時、私に言った言葉だ。
「自分の目が黒いうちに、こんな日が来るとは思わなかった」
それは、半世紀の間、冷戦下の厳しい国際情勢に直面し格闘してきた政治家としての、偽らざる実感だったのだろう。
後になって思えば、当然のような経過をたどってこの日がやったきたのだが、第2次大戦後の米ソの冷戦体制があまりにも強固だったので、誰もがこの体制が半永久的に続くものと思い込んでいた。
ベルリンの壁が崩れ落ちた後、東ヨーロッパの社会主義体制はあたかも将棋倒しのように倒壊し始めた。12月に入ると、地中海のマルタ島で、ブッシュ米大統領とゴルバチョフソ連共産党書記長が首脳会談が開かれ、「冷戦の終結」と「新時代の到来」が宣言された。
1989年の後半、事態はまさしく、あれよあれよという間に進んでいったのである。
文字どおり常時臨戦態勢にあった西ドイツと東ドイツは、それから1年後の1990年10月、なんと統一にまで至った。
私は冷戦の時代、別々の機会に当時の西ベルリンと東ベルリンの両側から壁を視察したことがある。そこで、逃亡の実態を知り、震撼させられたものだ。子どもを折りたたむようにして詰め込んだという大きなカバンも見せられたのを覚えている。
その頃、日本はどうだったのか。
1989年、日本は「昭和64年」ではじまり、1週間で「平成元年」になった。昭和を追いかけるように美空ひばりが他界。隣の大国・中国が民主化されるかもしれないという期待が、あっけなく踏みにじられた「天安門事件」もこの年の出来事だ。
年末には、日経平均株価が4万円に近付き、最高値を記録した。だが、年明けには暴落、バブルの崩壊へと続いていく。平成の「失われた10年」がここから始まる。
とはいえ、あの頃を思い出すと、米ソ冷戦の終結を受けて、これからはバラ色の未来が訪れると感じた人が多かったように思う。かくいう私もその一人であった。
そういう楽観的な認識をさらに高めたのは、クウェートに侵攻したフセイン大統領のイラクに、国際社会が結束して戦った湾岸戦争(1991年)であった。アメリカ、ソ連、中国がフセイン大統領を“共通の敵”と見なし、連携して対抗したことで、国連の機能がいよいよ全開するという期待感が広がったのだ。
私は当時、日ごとに政権への意欲を増していた宮沢喜一氏と「国連常設群の創設を全面軍縮―国際安全保障体制の構築を急げ」という論文に取り組んでいる。この論文は『月刊ASAHI』1991年5月号に掲載された。そんな夢のようなことが現実するかもしれない可能性を感じさせる雰囲気が、冷戦終結の直後にはたしかにあった。
しかし、残念ながら現実はそうはならなかった。それは言うまでもなく、その後の歴史の展開が如実に示している。
いま、それを象徴するのが、ベルリンの壁にかわる「新しい壁」の出現である。
冷戦後、とりわけ近年、ヨーロッパでは国と国の間に越境を防止する新しい壁が次々と建設された。その全長は1000キロに達するという。ベルリンの壁の6倍である。
どうして、そうなったのか?
やはり、われわれの見通しに甘さがあったと言わざるを得ない。
10年ほど前になるだろうか。私はメディアのインタビューに次のように語ったことがある。
――冷戦の檻に閉じ込められていた二匹の猛獣が解き放たれて、われわれはそれをコントロールする力をいまだ備えていない。
一匹はナショナリズムという猛獣であり、もう一匹は経済のグローバリズムという猛獣である。
冷戦体制をわれわれは負の体制と見なしてきたが、そこにははからずも、われわれが認識していなかったプラスの側面、重要な役割があったのだ。それは、二匹の猛獣を檻の中に閉じ込めていたということである――。
冷戦時代の世界は、あたかも地球が二つあるかのようであった。自由主義と社会主義が思想的に敵対するのなか、政治や軍事、経済、生活、文化といったあらゆる面で、「東西」両陣営の交流が妨げられていたからである。そこでは、陣営の対決がすべてに優先されていた。
こうした対決は思わぬ副作用を生んだ。
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