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歴代最長になる安倍政権の幕の下ろし方を考える

11月20日に憲政史上最長になる安倍政権もいつか終わる。その日をどう迎えるか……

鈴村裕輔 名城大学外国語学部准教授

「桜を見る会」に関する質問に答える安倍晋三首相=2019年11月15日、首相官邸

 11月20日、安倍晋三首相の内閣総理大臣としての在任期間が桂太郎の通算2886日を抜き、1885(明治18)年の内閣制度発足以来、歴代最長となる

 第1次内閣を組織して1年後、2007年9月26日に総辞職した際には、誰もが安倍氏の政治家としての経歴が終わったと思ったし、2012年12月26日に第2次内閣が発足した際も、本人の意欲を別にすれば、長期間にわたって政権を維持できると予測する人は決して多くなかった。

 しかし、実際には、政治上の師ともいうべき小泉純一郎元首相だけでなく、吉田茂、伊藤博文、佐藤栄作という歴史上の人物たちを抜き去り、憲政史上最長不倒の長期政権を実現することになった。

 とはいえ、安倍政権が永久に続くわけではなく、いつかは終わりを迎える。

 作曲家や画家、あるいは文学者たちは、しばしばどのように作品を生み出すかではなく、どのように作品を終わらせるかに苦闘するという。そのような悩みと同じく、行政府の長である首相にとっても、政権の幕の下ろし方は大きな問題だ。しかも、歴代の政権の「最期」を振り返れば、祝福されて任期を満了する首相だけでなく、満身創痍(まんしんそうい)の状態で退陣を余儀なくされる事例が少なくない。

 そこで、本稿では過去の事例を眺めつつ、「歴代最長政権」を実現した後の安倍首相の進むべき道を検討してみよう。

権力維持の手法は「ニコポン」

桂太郎・元首相=1908年
 まず、長らく首相在任の最長期間記録を保持していたのは桂太郎についてみてみよう。

 彼は1901(明治34)年の第1次政権以来、計3回にわたって政権を担当した。「長州」、「陸軍」、「政党嫌い」という三つの点で元老の山県有朋と共通し、山県の後継者と目された桂は、陸軍軍人としての実戦の手腕は決して高くなかったものの、軍政に明るく、権力への欲求も強かった。

 桂の権力維持の手法は、「ニコポン主義」とも呼ばれた。

 明治時代の日本を支えた伊藤博文や山県、井上馨ら長州出身の元老の機嫌を取り、伊藤が創設し、西園寺公望が第2代総裁をつとめた立憲政友会と妥協しつつ難局を切り抜ける様子は、ニコニコと相手に手を差し伸べ、ポンと肩を叩く姿とあいまって、桂の代名詞となった(桂と西園寺は交互に政権を担当し、「桂園時代」と呼ばれている)。

第1次護憲運動で政治生命を絶たれ

 だが、時代が明治から大正に移ると、藩閥勢力に対抗出来る唯一の勢力としての政党、とりわけ政党の最大勢力である立憲政友会を中心として、憲政擁護運動が起きる。立憲政友会の尾崎行雄は国民党の犬養毅とともに「憲法を守った政治を行うべき」と、「憲政擁護 閥族打破」の標語を掲げて第1次護憲運動を開始し、藩閥ではなく政党が政治を主導する政党政治の実現を目指す。

 第3次内閣を組閣したばかりの桂は護憲派を封じ込めるため、詔勅により議会を停会する。だが、護憲派は桂内閣に対する不信任決議案を提出するとともに、尾崎行雄が桂内閣に対し、天皇の権威を借りて政敵を倒そうとしていると糾弾演説を行う。こうした動きは全国に広がり、桂内閣は退陣を余儀なくされた。1913(大正2)年2月のことだった。

 第1次護憲運動に翻弄され、第3次内閣の発足から62日で退陣したときの桂には、一時は並ぶ者がいないほどの権勢を誇り、明治天皇から「桂の大天狗」とも称された面影はなかった。

 桂は退陣直前の1913年1月に立憲政友会に対抗するため、自ら政党、いわゆる「桂新党」の結成を発表し、事態の打開を図ったものの、10月に病没する。桂が実現を目指した新党は、1913年12月23日に加藤高明を総裁とする立憲同志会として成立し、1916(大正5)年には他の政党と合流して憲政会となり、日本に二大政党制をもたらすことになる。

「人事」を駆使して長期政権を維持

初の記者会見をする佐藤栄作首相=1964年11月10日
 第1次政権の発足以来2798日間にわたって政権を担当し、連続在任日数の記録を持つのが佐藤栄作だ。

 大きな目、威圧感のある顔立ちから「政界の団十郎」と呼ばれた佐藤だが、1964(昭和39)年11月9日に組閣した直後、国民の支持は概して低く、「あんな政権はすぐ潰れる」と言われた。「金権政治」、「対米依存」、「官僚的」と批判を受けながら、自民党が単独で衆議院の過半数を占めたことを背景に、「反佐藤」の急先鋒であった中曽根康弘氏に、「総理になるためには子分を犠牲にしてでも何度も大臣を務めなければならない」と説いて入閣させるなど、佐藤は「人事の佐藤」と称された巧妙な人事を駆使して政権を維持した。

 結果的に、佐藤政権下では、日韓基本条約の調印、非核三原則の確立や沖縄の返還、公害対策基本法の制定、日米繊維摩擦の解決など、戦後の日本政治の画期をなす成果をあげたのである。

 佐藤の政権運営の手際の良さは、高度経済成長による経済の拡大、「静観自得」を基本とする政治、佐藤政権の実現のために結成された「Sオペレーション」、特に首相首席秘書官を務めた楠田實らのブレーンらの存在抜きには語れない。「当初は不人気であっても議会においては総議席の過半数を占め、与党内では人事を巧みにすることで求心力を保ち、内政や外交で着実に成果を挙げる」という姿は、第2次政権発足以来の安倍首相とダブってみえる。

無人の記者会見で引退声明。後継指名もできず

 敏腕政治記者だった読売新聞主筆の渡邉恒雄氏が「すぐに倒れると思った佐藤政権が長続きし、『今太閤』と呼ばれて国民の人気が高かった田中角栄内閣がすぐに退陣したのは、いい勉強になった」と評価した佐藤栄作も、退陣する際の様子は寂しかった。

 象徴的なのは、退陣表明記者会見だ。佐藤は、記者が誰一人いない首相官邸の会見場で、テレビカメラを前に引退声明を述べた。官房長官として会見に同席した竹下登は、引退声明をテレビに向かって語りかけるように行いたいと思った佐藤と、聞き役として同席しようと思った新聞記者との間で会見の形式の理解が相違したため、「無人の記者会見」が起きたと指摘する。

 いずれにせよ、7年8か月という長期政権の最期は、どこか寒々とした幕切れとなった。くわえて、第3次改造内閣発足後は閣僚の辞任が続いたこともあって内閣の求心力が低下し、「人事の佐藤」も後継者を指名して退陣することもかなわなかった。

 佐藤は自身と同じ官僚派の福田赳夫を後継の総理総裁として指名することを希望していた。だが、佐藤夫人と秘書官の大津正が田中角栄を支持していたこと、田中が日米間の難問であった繊維交渉を通産大臣として取りまとめたことなどから、佐藤は後継指名に失敗する。結局、自民党総裁選で田中が福田を破り、田中政権が誕生した。

首相官邸であった引退会見でTVカメラだけを相手に独演する佐藤栄作首相(中央)=1972年6月17日、首相官邸

 「政界風見鶏」に徹して総理・総裁の座に

 同郷の先達である桂太郎、大叔父の佐藤栄作が必ずしも幸せとはいえない形で退陣したのに対し、余力をもって後進に政権を譲り、その後も政界の長老として隠然とした力を持ったのが中曽根康弘氏だ。

 首相在任は歴代7位の1806日。ロナルド・レーガン米大統領との間で「ロン・ヤス」時代を築き、国鉄、電電公社、専売公社などを実現した中曽根氏が「戦後政治の総決算」を掲げて組閣したのは1982(昭和57)年のことだった。

 状況を読み、有利な選択肢を見極めようとする中曽根氏の政治姿勢は、しばしば「政界風見鶏」と呼ばれた。改進党などの小政党を経て自民党に入り、その後も河野一郎派に属するなど「小派閥の悲哀」を経験した中曽根氏にとって「風」を読んで権謀術数の限りをつくすことは、生き残るための不可欠であった。それだけに、念願の総理・総裁の座を手にしたからには、政権維持のために必要なあらゆる手段を講じた。

記者会見をする中曽根康弘首相=1986年12月30日、首相官邸

後継指名に成功。余力を残して退陣

 ときに失言で世論の批判をあびたり、売上税の導入に失敗して支持率を落としたりしたが、転んでもただは起きないのが「中曽根流」だ。

 たとえば、売上税の導入を巡る自民党の混乱が、中曽根氏の後継者を総裁選で選ぶと党内の対立がさらに深まるという雰囲気を生んだこと逆手にとり、次期総裁の裁定を自ら白紙に委任させることに成功。安倍晋太郎、竹下登、宮沢喜一の3人の候補者から竹下を後継総裁に指名し、余力をもったまま1987年11月に退陣した。

 中曽根氏は1989(平成元)年、リクリート事件に関与したことで自民党を離党するものの2年後に復党、2003(平成15)年に政界を引退するまで56年間にわたって衆議院に議席を維持した。この間、1997年(平成9)年には大勲位となって名実ともに位人臣を極めた中曽根氏は、100歳を超えた今もなお自民党の憲法改正派の象徴であり続けている。

 五輪を経験した首相の退陣は……

 ここまで、長期政権を実現した桂太郎、佐藤栄作、中曽根康弘の歴代3首相の政権の幕引きの様子を見てきた。

 このほかにも、首相退任を境に政界からも引退する小泉純一郎氏のような「完全引退型」や、退任後に首相経験者の知名度を活かして国際交流に貢献したり国内の顕職を歴任する福田康夫氏や森喜朗氏のような「第二の人生型」、麻生太郎財務大臣のように副総理として安倍政権を支え続ける「再チャレンジ型」があるが、首相在任期間の歴代最長記録を更新する安倍首相はどのような道を進むべきだろうか。

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