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冷戦終結後の人口流出が招いた東欧の悲劇

ポスト冷戦時代を読む(1) 政治社会学者 クラウス・オッフェさん

三浦俊章 朝日新聞編集委員

 ベルリンの壁が崩壊してから30年。各地で記念行事が続いているが、当時の欧州をおおったバラ色の楽観主義はどこにもない。あのときは、多くの人々が社会主義体制の敗北、そしてリベラル・デモクラシーの勝利を信じた。
 しかし、ソ連型社会主義の消滅は、平和と繁栄の到来を意味しなかった。「自由化」されたはずのポーランドやハンガリーでは、権威主義的な指導者が政権を握り、法の支配を無視した統治を続けている。民主主義のモデルと思われたアメリカやイギリスさえ、ポピュリズムの嵐に見舞われている。冷戦終焉の舞台となったドイツでは、移民排斥の右派政党「ドイツのための選択肢」が連邦議会に議席を得て、歴史の見直しを迫る。
 我々はどこで間違ったのだろうか。この30年間に起こったことは何だったのか。ヒントを求めて、歴史の潮流を見つめてきた3人の識者にインタビューした。1回目は、マルクス主義の影響を受けたフランクフルト学派の論客、クラウス・オッフェ独ヘルティ公共政策大学院教授に聞いた。(朝日新聞編集委員・三浦俊章)

インタビューにこたえるクラウス・オッフェ独ヘルティ公共政策大学院教授

クラウス・オッフェ 独ヘルティ公共政策大学院教授
1940年生まれ。著名な社会学者ユルゲン・ハーバーマスの助手を長く務めた。政治社会学者。民主主義と資本主義の関係をテーマに研究。邦訳された著書に『アメリカの省察 トクヴィル・ウェーバー・アドルノ』など(法政大学出版局)

2人の娘を自動車に乗せてベルリンへ

――30年前、ベルリンの壁が開放されたとき、何をされていましたか。

 1989年11月9日に壁が開放されたとき、私は西ドイツのブレーメン大学で教えていました。ニュースを聞くと、2人の娘を自動車に乗せてベルリンに向かいました。自分の目で、歴史的事件を確かめたかったのです。

 その翌日、ベルリンの壁に一枚の紙が貼り付けてありました。東側のだれかが風刺詩を書いたのです。その詩は、「通貨統一が行われて、(当時の西ドイツの通貨)マルクがやってくれば、東側の経済は崩壊するだろう。そうしたら、東ドイツにはつらい時代が来る」と予言した内容でした。東側世界が直面する運命を予知するような、鋭い風刺詩でした。私自身は、かなり早い時点から、壁の崩壊がもたらすものについては、懐疑的だったと思います。

――なぜこんなことになったのでしょうか。

 壁の崩壊後、東西ヨーロッパの社会経済の発展の度合いを比べると、かえってギャップは広がった。東ヨーロッパの現状を理解するには、デモグラフィー(人口統計学)の視点が欠かせません。ひとつは、技能を持つ労働力が大量に西側に流出したこと。2番目には、その結果、高齢化少子化が進んだこと。3番目には、数の上では男性よりも女性が西側に移ったので、男女比のバランスが崩れてしまったことです。

 専門職の流出が著しい。医者がそうです。バルト3国やポーランドの医者がドイツに来ました。特にルーマニアの医療事情はひどいことになっている。残っている人は不安がつのります。空いた所には、今度はシリアなど中東からの医者が流入してきました。それが、他民族に自分の国が占拠されるのではないかという、民族主義的な恐怖心を生んでいる。

外国人を知らないことで膨らむ恐怖や反発

クラウス・オッフェ独ヘルティ公共政策大学院教授
――東ヨーロッパは、特に外国人への反発が強いのでしょうか。

 社会学にはひとつの法則のようなものがあります。外国人に接する機会が少ない人ほど恐怖や反発は大きいのです。スロバキアの南部には、ハンガリー人の大きなコミュニティーがありますが、地元では問題なく共存している。しかし、ハンガリー人がほとんどいない北部では、ハンガリー人への反発が大きい。

――ドイツでは、旧東ドイツのほうが、移民排斥の声が大きいとか。

 旧東ドイツは、エスニックの面ではヨーロッパで最も純粋な国家でした。マイノリティーがほとんどいない。みんながドイツ語を話す。外国人は全人口の2%です。1%はソ連軍の兵士でしたが、彼らは基地の中に住んでいました。もう1%は、北朝鮮とベトナムからの労働者ですが、彼らも自分たちだけで住んでいて、一般の東ドイツ国民は外国人の姿を見ることはなかったのです。

 西ヨーロッパは、まったく事情が違いますね。ふたつの種類の外国人がいました。ひとつは、旧植民地から来た人々。アフリカ、カリブ海、インド、パキスタンから大勢の移民がありました。1960年代からは、トルコなどから外国人労働者が来ました。東ヨーロッパの国々にはこうした経験がありません。

――社会主義はもともと、祖国を持たない思想で、国際主義の要素もあったのでは。

 それは権威主義的な国際主義です。ソ連が社会主義圏をリードするという考え方には、疑問を投げかけることは許されなかった。独自の路線を主張したのは、アルバニア、ユーゴスラビア、ルーマニアの3国だけ。あとの国は、プロレタリア国際主義にリップサービスをしているだけだった。

 ソ連崩壊後には、民族主義が復活した。かつての支配者に対する復讐の面もある。バルト3国に居住するロシア人、ブルガリアのトルコ人、ポーランド在住のドイツ人などが憎悪の対象となっています。

――東ヨーロッパ固有の社会的条件や、歴史上の負の遺産があるのですね。

 東西で社会的、文化的な違いが大きい。西ヨーロッパの人は、人口の1、2割が外国人ということに慣れている。加えて、1960年代後半には学生による大規模な抵抗運動を経験しました。西ドイツでいえば、あのときに、保守的だった政治文化が根底的にリベラルなものに変えられました。東ヨーロッパでは、そのような抵抗運動で政治文化が変わったという経験がありません。

東欧では民主主義が繁栄を生まなかった

――ソ連型社会主義体制からの開放は、社会や政治の自由化に直結しなかったのですね。

 西ヨーロッパの側の傲慢さという問題もあった。ヨーロッパ連合(EU)が、加盟の条件として1993年に示した「コペンハーゲン基準」がその典型です。東ヨーロッパの国々はEUに入りたければ、民主主義体制、法治主義、基本的人権の尊重などの基準を満たさなければならない。西ヨーロッパのイメージに合うような改革をせよ、ということです。

 東側は、政治的にお行儀よくすれば経済的な報酬をあげますよ、ということだと受け取った。こういう考え方は、東ヨーロッパでは無条件に好感を持って受け止められたわけではない。EU本部のあるブリュッセルが「新しい主人」というわけです。

 しかし、西側が望んだ複数政党制、言論の自由、基本的人権の尊重などを取り入れても、東側が期待していたような安定した資本主義、経済的繁栄は来なかった。デモクラシーが経済的繁栄を生むという方程式は成り立たなかったのです。

 豊かになったのは、都会に住む専門技能を持つわずかな人だけだった。この点、ドイツのエリートは傲慢(ごうまん)でした。西ドイツは、第2次世界大戦のあとに苦労してデモクラシーを作り、経済を復興させ、1960年代初頭には完全雇用を達成した。東ヨーロッパは、戦争がなかったのだからもっと容易だろうと考えた。実際には、東ヨーロッパでは失業率が高止まり、フラストレーションがたまった。

――第2次世界大戦後、アメリカはマーシャル・プラン(ヨーロッパ経済復興援助計画)により大規模なテコ入れをしました。東ヨーロッパの場合は、もっぱら市場原理に任せる新自由主義政策だったのではないでしょうか。

 アメリカ人は、歴史は自分たちが正しかったことを証明した、と考えました。冷戦の勝利者は、第2次世界大戦の勝利者にない傲慢さがあったと思います。

30年前の民主化運動に対するメッセージが書かれた短冊で飾られたブランデンブルク門=2019年11月1日、ベルリン。野島淳撮影

ポピュリズム台頭の裏に社会民主主義の衰退

地方選の結果に注目するドイツ右派政党「ドイツのための選択肢」の集会=2019年9月1日、ドイツ東部ウェーダー。野島淳撮影
――今日、ポピュリズムが東ヨーロッパどころか西ヨーロッパ、アメリカなど、世界各地に伝播しています。こうした事態をどう考えますか。

 いまの世界に共通するのは、民族中心的なナショナリズム、新しいタイプの権威主義、人々の素朴な感情に訴える手法、議会制民主主義への不信などです。これらは共通した病理で、根っこにあるのは恐怖心の政治です。

 20世紀において、恐怖の最大のものは戦争への恐怖でした。現在の恐怖は、経済不況、失業、希望の喪失、テロリズム、予測不可能性、人間存在のもろさ、そういったものに対する恐怖です。政治は、この恐怖心を、人々をあおる道具にしている。その結果、恐怖が恐怖を生み、根拠のない恐怖、パラノイア状態が広がった。人間は何かを恐れているときは、ルールを忘れて、自分を守ろう、自分の属する集団を守ろうとする。それがポピュリズムを生んでいるのです。

 重要なのは、ポピュリズムの台頭が社会民主主義の急速な衰退と同時に起こっていることです。ヨーロッパにおいて、社会民主主義は偉大な政治的伝統でした。それは、人々の暮らしを守るという約束だった。社会民主主義がその約束を果たせなくなってしまい、信用を失った。ドイツでも社会民主党は劇的に凋落しています。

――社会民主主義が凋落した背景には、グローバリゼーションの進展があるのでありませんか。一国単位での政策の有効性が失われたことで、福祉国家は破綻しました。

 まさにそれが事実ですね。あわせて基幹産業もこわれてしまった。製造業はドイツでは労働人口の20%まで減りましたが、アメリカは10%、イギリスは9%ですよ。製造業は賃金の安い国へアウトソースしてしまった。

ワイマール共和国の悲劇は再来するか?

ベルリンの壁崩壊から30年の2019年は、短命に終わったワイマール共和国の生誕100年でもあった。ベルリンの歴史博物館ではワイマールの特別展が開かれた。左側はワイマール・デモクラシーを擁護した法学者ハンス・ケルゼン

――ドイツで民主主義が崩壊し、ナチス独裁への道が開かれたワイマール共和国の悲劇は、今後再来するのでしょうか。同じ流れがあると懸念する人たちもいます。

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