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「偉くならない」教皇フランシスコの来日

高いところから教えを説くのではなく、低いところへ低いところへと自ら身を置く原点

中島岳志 東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授

原理主義へのアンチテーゼとして

中島 伝統を守るためにこそ、新たな解釈をし直す、ある種の改革をしていく。そうした教皇の姿勢は、現代社会における非常に大きな問題の一つである「原理主義」を考えるときにも、重要な気付きを与えてくれると感じます。

 原理主義は、キリスト教はもちろんイスラーム教やヒンドゥー教など多くの宗教に存在しますが、共通しているのは世界には「唯一の原理」というものが存在するとしていること、そしてそこに復古することこそが正しい教えへの近づきだと考えることです。伝統を大切にするためには改革が必要だという教皇の立場は、ちょうどその原理主義の思想の正反対にあると思います。

若松 本来、信仰というもの、信ずるという行為は、つねに動き、変化していくものであるはずです。それを変化しないもの、止まっているものとしてとらえたときに、強い暴力性が生まれる。それが原理主義の実態ではないでしょうか。原理主義者にはもう「謎」は存在しない、ともいえます。しかし、「謎」がないところに真の意味での超越もまた、存在しえないのです。

山本 原理主義は、伝統というものを、非常に単純化して定義できるものとしてとらえているように思います。実際には、伝統というのはもっと豊かなものであって、まだまだ解釈し尽くされていない部分が絶対にあるはずで、私たちもまたその豊かな伝統の中に生きている。それに対する尊重のような念が、原理主義には決定的に欠けていると感じます。

中島 おっしゃるとおりです。信仰というのは、人間は真理というものを完全には把握しきれないというところからスタートするもののはずです。原理主義のように、真理が「これだ」と指さして示せるものとして存在すると考えるならば、それは人間の能力への過信にほかならず、もはや信仰とはいえないのではないでしょうか。

 しかし、そうした原理主義的な傾向が、宗教の違いを超えて世界的に広がっている。「伝統は動く」といい、改革を恐れない教皇のあり方そのものが、この状況への一つのアンチテーゼとなるように思います。

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「利用する自然」と「生かしてくれる自然」

中島 教皇の考え方、思想が非常によく表れているのが、2015年に発表された回勅(教皇から全世界のカトリック司教、信徒へ宛てる形で出される公的なメッセージ)『ラウダート・シ』です。

 またアッシジのフランシスコの話に戻るのですが、彼は死の直前に「被造物の讃歌」という歌を遺していますね、太陽、月、星、風、火など、あらゆる被造物を人間の「兄弟」として讃える内容で、これはアッシジのフランシスコの思想のかなりコアなところにある考え方だと思います。「小鳥に対して教えを説いた」という話も有名ですよね。

 『ラウダート・シ』を読んでいて、教皇もまた、このアッシジのフランシスコの思想を非常に強く受け継ごうとしているのではないかという気がしました。これは環境問題に関する回勅だといわれていますが、そこにはいわゆる環境保護、単に「木を伐らないでおきましょう」といったことを超えた、ある世界観、宇宙観のようなものが描かれているように感じます。

山本 世の中に様々な社会問題があるうちの一つとしての環境問題、というふうに狭い意味でとらえてしまうと、教皇の意識とはかなりずれてきてしまう気がしますね。教皇が目指しているのは、人と人、人と自然、そして人と超越者のつながりといった、万物のつながり全体の調和を回復していくこと。環境問題は、今の社会においてもっとも「調和」が失われている側面であるがゆえに、その調和を取り戻すための突破口になるということなのだと思います。

中島 それは、いわゆる西洋世界が持っている環境問題に対するアプローチとは、かなり異なりますよね。私は自分は仏教徒だと思っていて、キリスト教世界にそれほどなじみがあるわけではないのですが、その私が読んでも非常に共感できる宇宙観だと思いました。

若松 ここで問題となるのは「自然」のとらえ方です。自然は、人間が利用するもの、消費するものなのか、私たちを生かしてくれているもの、そして私たちが守り、育むものなのか、という問題です。『ラウダート・シ』で教皇は、自然が人間によって支配されるべき対象であるかのように理解したのは誤りであったとはっきり述べています。

 「自然との共生」という言葉がありますが、教皇の立場はそれよりもう一歩踏み込んでいる。私たちは自然なしには生きていくことができない。その、キリスト教的にいえば私たちを「生かしている」力の表れでもある自然を、これまで自由に利用し、徹底的に消費してきた。それ自体がどうなのかという問いかけなのだと思います。

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筆者

中島岳志

中島岳志(なかじま・たけし) 東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授

1975年、大阪生まれ。大阪外国語大学でヒンディー語を専攻。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科でインド政治を研究し、2002年に『ヒンドゥー・ナショナリズム』(中公新書ラクレ)を出版。また、近代における日本とアジアの関わりを研究し、2005年『中村屋のボース』(白水社)を出版。大仏次郎論壇賞、アジア太平洋賞大賞を受賞する。学術博士(地域研究)。著書に『ナショナリズムと宗教』(春風社)、『パール判事』(白水社)、『秋葉原事件』(朝日新聞出版)、『「リベラル保守」宣言』(新潮社)、『血盟団事件』(文藝春秋)、『岩波茂雄』(岩波書店)、『アジア主義』(潮出版)、『下中彌三郎』(平凡社)、『親鸞と日本主義』(新潮選書)、『保守と立憲』(スタンドブックス)、『超国家主義』(筑摩書房)などがある。北海道大学大学院法学研究科准教授を経て、現在、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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