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「偉くならない」教皇フランシスコの来日

高いところから教えを説くのではなく、低いところへ低いところへと自ら身を置く原点

中島岳志 東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授

「この経済は人を殺します」

中島 『ラウダート・シ』の中に「重荷を負わされ荒廃させられた地球は、見捨てられ虐げられたもっとも貧しい人々に連なっており…」という一節があります。その後ろには「わたしたちは自らが土の塵であることを忘れてしまっています」ともある。つまりは大地、そしてすべての自然と私たちの身体とのつながりを論じ、その地球の環境が破壊されることによって、貧しい人々が暴力にさらされているんだ、と述べているわけです。この世界観は非常に重要だと思いました。

若松 万物はつながりのなかにある。空はいわば、人類の屋根です。河は、人類の泉です。今、中国やインドは、大気汚染に苦しんでいます。その陰には無謀な経済成長による自然破壊がある。水や空気が汚染されればいずれは私たち自身が生きていけなくなる。中でも最初に厳しい目に遭うのが弱い人たちだ、ということです。

山本 これもまた、旧約聖書以来のキリスト教の発想とのつながりを感じますね。『創世記』で、アダムとイヴが神に禁じられた木の実を食べたことによって、土にはアザミといばらがはびこるようになり、人間は食べ物を得るために過酷な労働を強いられるようになる……。人間の罪と、自然の循環の「破れ」とが、密接につながっているという発想がそこにあるのだと思います。

中島 教皇は、人間が尊重しないといけないのは、自然の掟や地上の被造物間に存在する「繊細な均衡状態」だと言っています。その均衡状態を、自分たちの手で崩すことなく、微調整を重ねながらなんとか保っていくこと。それこそが人間の力の限界であり、私たちがやるべきことなのだと思います。

 そして、その均衡状態が崩れたときに、最初にひずみが来る弱い人たちの視点から世界を見なくてはならない、その「弱い人たち」を生み出している原因でもある、世界のスタンダードになりつつあるグローバル資本主義を反転させていかなくてはならない。そういう感覚を、教皇は強く抱いているように思います。

若松 そのグローバル資本主義について、教皇は、先に見た『福音の喜び』で、「この経済は人を殺します」という言い方すらしています。これまでの教皇の回勅にも、経済問題に触れられているものはいくつかありましたが、ここまで言い切った人はいなかった。一歩踏み込んだ表現だと思います。

「統合」から「均衡」へ

若松 「均衡」の感覚は、これからの時代を作っていく重要な要素になっていくと思います。この感覚を目覚まし、世界を再構築できるかどうかによって、それぞれの地域、社会、国家、そして世界のありようが変わってくると思うのです。

 このことをいち早く提唱していたのが、深層心理学者の河合隼雄です。「均衡」という言葉の対極にあるのが、「統合」だと思います。マルクス主義でもキリスト教原理主義でも、さまざまな「イデオロギー」は世界を統合して、一色にすることを目指す。

 いっぽう、「均衡」は、イデオロギーによって分断するのではなく、さまざまなものが、それぞれの役割と意味を表現しながら共存できる世界です。そこにあるのは「イデオロギー」ではなく「コスモロジー」なのです。

 もちろん、キリスト教もある時期まで、「自分たちこそが正しい」という「統合」の方向に進んでいたことは否定できません。その中で、教皇は「均衡こそ大事だ」ということをここまで言ってくれたからこそ、支持を集めているのだと思います。

中島 全体のバランスが崩れるのを補正することが大事だ、という考え方は、東洋の哲学や仏教にも非常に近いですよね。そうした発想がカトリックのトップから出てくるのは非常に面白いなと思いました。

若松 真言宗の開祖である僧侶・空海は、水害を防ぐための治水事業にも力を注ぎましたね。そこにも、自然と人間のつながりが破壊されれば、最初に一番弱い人が苦しむという世界観があったように思います。

中島 仏教の教えを探求するがゆえに治水をする。それも、近代のように巨大ダムを造るといった形ではなく、自然とうまく付き合うための堤のつくり方を模索していく。それはやはり、「うまく付き合えなくなった」ときに誰が傷つくのかを考え、世界全体を俯瞰していたからだと思います。

 もともと「東洋と西洋」というときの「東洋」というのは単なる空間的な概念ではなく、近代社会と対比される「何か」のことだったと思うのです。それが今、キリスト教社会とさまざまな面でつながろうとしている。これは非常に重要なことだと思います。

若松 宗教のあり方、信仰のあり方自体が、とても新しい形に入っていっているような気がします。かつて、アッシジのフランシスコの時代にはイタリア国内で数多くの戦争が繰り広げられていたけれど、今その戦争はなく、イタリアという国が生まれて、EUができてと、世界はどんどん大きく──ある意味では小さくなっている。その中で、かつては「宗教が同じ」ということがあるアイデンティティを形成していたのが、今はもう少し違うところにアイデンティティを感じる人が増えつつある。教皇は、それを体現している人ではないでしょうか。

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筆者

中島岳志

中島岳志(なかじま・たけし) 東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授

1975年、大阪生まれ。大阪外国語大学でヒンディー語を専攻。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科でインド政治を研究し、2002年に『ヒンドゥー・ナショナリズム』(中公新書ラクレ)を出版。また、近代における日本とアジアの関わりを研究し、2005年『中村屋のボース』(白水社)を出版。大仏次郎論壇賞、アジア太平洋賞大賞を受賞する。学術博士(地域研究)。著書に『ナショナリズムと宗教』(春風社)、『パール判事』(白水社)、『秋葉原事件』(朝日新聞出版)、『「リベラル保守」宣言』(新潮社)、『血盟団事件』(文藝春秋)、『岩波茂雄』(岩波書店)、『アジア主義』(潮出版)、『下中彌三郎』(平凡社)、『親鸞と日本主義』(新潮選書)、『保守と立憲』(スタンドブックス)、『超国家主義』(筑摩書房)などがある。北海道大学大学院法学研究科准教授を経て、現在、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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