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「もうひとつの徴用工」から日韓の解決策を探る

花岡事件の遺族や日中僧侶、70年ぶり行進/終わらぬ遺骨返還、続く賠償訴訟

市川速水 朝日新聞編集委員

1945年6月、花岡事件

 2019年11月19日朝、晴れ渡る東京の芝公園に6830足の黒い靴が並べられた。

 中国では身内が亡くなると布靴をはかせて弔う風習があるという。このおびただしい数は、第2次世界大戦中、日本の国家総動員体制の中で135事業所に連行された中国人約4万人のうち、虐待や病気で亡くなったとされる人たちの数だ。

拡大東京・芝公園に並べられた6830足の黒い革靴の後ろを通るデモの行列=2019年11月19日、筆者撮影
 中国から来日した犠牲者の遺族ら約50人はその後、「前事不忘 後事之師」(前事を忘れざるは後事の師なり)などと書かれた垂れ幕を手に、僧侶が奏でる雅楽とともに公園周辺を静かに歩いた。

 デモ行進の中心は、終戦末期に中国人労働者が秋田県・花岡(現大館市)の鉱山で犠牲となった「花岡事件」の遺家族だった。

 その先頭のあたりを歩いていたのは浅草にある棗(なつめ)山運行寺の菅原侍住職。仏教界と犠牲者遺族がそろってデモ行進するのは、初めてだという。

 だが、菅原住職は「いえ、70年ぶりということになります」と語った。

 菅原さんの祖父にあたる菅原惠慶さんが住職の時代、1949年に花岡事件が表面化した。花岡で中国人の遺体が散乱しているのを在日朝鮮人が発見し、在日華僑らとともに発掘を始めた。

 花岡事件。それは、終戦2カ月前の1945年6月、花岡鉱山に強制連行された中国人が河川改修工事などでの過酷な労働や虐待に耐えかねて、一斉に蜂起した出来事だ。日本人を殺害し、逃亡を図ったが鎮圧された。働いていた986人の中国人のうち、虐殺や拷問で419人が亡くなる惨事となった。

 惠慶さんは中国の高僧・曇鸞(どんらん)を尊敬し、宗教を通じて日中友好を実践しようとしていた。花岡事件を知って「信仰の原点、曇鸞を生んだ中国人を尊敬していただけに、事件のショックは大きかったようだ。悲嘆のどん底に落とされたと漏らしていた」(2000年8月11日付朝日新聞、後を継いだ菅原鈞住職の話)という。

 惠慶さんは遺骨を長い間、寺の自室に保管し、日中国交がまだない時代で返還が難しかった中国との橋渡し役を務めることになった。

 東京で法要する際、現地からはるばる運んできた遺骨を胸に上野・浅草界隈を行進した。その時以来、70年ぶりの法要・追悼行進、というわけだ。

 発掘された遺骨は中国に還ったが、運行寺には、いまも犠牲者の大半の名前が書かれた位牌が残る。

拡大名前と輪郭、番号が書かれた祖父の「遺影」を抱えて歩く路桂英さん=2019年11月19日、東京都内、筆者撮影
 河北省から初めて来日した路桂英さん(56)は、写真のない、顔の輪郭だけの遺影を携えて来日した。遺影の部分には「640号」と番号が書きこまれている。写真がまったく残っておらず、戦後、外務省が公表した報告書の中の整理番号を祖父だと思って大事にしてきたという。

 路さんは行進の前日、運行寺で初めて位牌と対面し、中に祖父の名前を見つけ、号泣した。

 「こんな日が来るとは…。亡くなったのは30歳の時だったはず。どんな最期だったのか。大黒柱を失った中国の一家はずっと大変だった。それでもやっと会えてうれしい」

 ほかの犠牲者遺族も、名前を指でさすったり写真に撮ったりして名残を惜しんだ。

 今回の訪日団に合わせて、中国の仏教界からも約20人の高僧が日本に招かれ、日中合同の慰霊法要が行われた。合同法要は2009年以来、10年ぶり2回目のことになる。

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筆者

市川速水

市川速水(いちかわ・はやみ) 朝日新聞編集委員

1960年生まれ。一橋大学法学部卒。東京社会部、香港返還(1997年)時の香港特派員。ソウル支局長時代は北朝鮮の核疑惑をめぐる6者協議を取材。中国総局長(北京)時代には習近平国家主席(当時副主席)と会見。2016年9月から現職。著書に「皇室報道」、対談集「朝日vs.産経 ソウル発」(いずれも朝日新聞社)など。

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