花岡事件の遺族や日中僧侶、70年ぶり行進/終わらぬ遺骨返還、続く賠償訴訟
2019年11月24日
2019年11月19日朝、晴れ渡る東京の芝公園に6830足の黒い靴が並べられた。
中国では身内が亡くなると布靴をはかせて弔う風習があるという。このおびただしい数は、第2次世界大戦中、日本の国家総動員体制の中で135事業所に連行された中国人約4万人のうち、虐待や病気で亡くなったとされる人たちの数だ。
デモ行進の中心は、終戦末期に中国人労働者が秋田県・花岡(現大館市)の鉱山で犠牲となった「花岡事件」の遺家族だった。
その先頭のあたりを歩いていたのは浅草にある棗(なつめ)山運行寺の菅原侍住職。仏教界と犠牲者遺族がそろってデモ行進するのは、初めてだという。
だが、菅原住職は「いえ、70年ぶりということになります」と語った。
菅原さんの祖父にあたる菅原惠慶さんが住職の時代、1949年に花岡事件が表面化した。花岡で中国人の遺体が散乱しているのを在日朝鮮人が発見し、在日華僑らとともに発掘を始めた。
花岡事件。それは、終戦2カ月前の1945年6月、花岡鉱山に強制連行された中国人が河川改修工事などでの過酷な労働や虐待に耐えかねて、一斉に蜂起した出来事だ。日本人を殺害し、逃亡を図ったが鎮圧された。働いていた986人の中国人のうち、虐殺や拷問で419人が亡くなる惨事となった。
惠慶さんは中国の高僧・曇鸞(どんらん)を尊敬し、宗教を通じて日中友好を実践しようとしていた。花岡事件を知って「信仰の原点、曇鸞を生んだ中国人を尊敬していただけに、事件のショックは大きかったようだ。悲嘆のどん底に落とされたと漏らしていた」(2000年8月11日付朝日新聞、後を継いだ菅原鈞住職の話)という。
惠慶さんは遺骨を長い間、寺の自室に保管し、日中国交がまだない時代で返還が難しかった中国との橋渡し役を務めることになった。
東京で法要する際、現地からはるばる運んできた遺骨を胸に上野・浅草界隈を行進した。その時以来、70年ぶりの法要・追悼行進、というわけだ。
発掘された遺骨は中国に還ったが、運行寺には、いまも犠牲者の大半の名前が書かれた位牌が残る。
路さんは行進の前日、運行寺で初めて位牌と対面し、中に祖父の名前を見つけ、号泣した。
「こんな日が来るとは…。亡くなったのは30歳の時だったはず。どんな最期だったのか。大黒柱を失った中国の一家はずっと大変だった。それでもやっと会えてうれしい」
ほかの犠牲者遺族も、名前を指でさすったり写真に撮ったりして名残を惜しんだ。
今回の訪日団に合わせて、中国の仏教界からも約20人の高僧が日本に招かれ、日中合同の慰霊法要が行われた。合同法要は2009年以来、10年ぶり2回目のことになる。
1990年代に入って日本で急速に広まった戦後補償・戦時賠償要求運動のなかで、中国人強制連行問題は、具体的な進展があったという意味で、一歩先を行っている。
使用側の鹿島の謝罪や賠償、記念施設設置を求めた花岡事件の場合、1990年から日本の弁護士らを通じて使用側の鹿島と交渉が始まり、1995年に鹿島を相手取って提訴した。
これが先例となり、民間企業と被害者・遺族との交渉・裁判は和解へと動き出した。
京都・加悦町のニッケル鉱山の労働をめぐっては原告が日本冶金と和解(2004年)。広島・安野水力発電所工事や新潟・信濃川ダム工事で西松建設と和解(2009年、2010年)。さらに、三菱マテリアル(当時は三菱鉱業)が2016年、一部の元労働者との和解を決めた。大戦当時、10を超える事業所で約3700人という他社より格段に多い労働者を管理していた同社の決断は、日中関係の好転にも弾みをつけたといわれる。
いま、日韓関係がこじれている端緒となった元徴用工問題に目を移してみる。
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