大井赤亥(おおい・あかい) 広島工業大学非常勤講師(政治学)
1980年、東京都生まれ、広島市育ち。東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。博士(学術)。現在、広島工業大学で政治学講師を務める。著書に『ハロルド・ラスキの政治学』(東京大学出版会)、『武器としての政治思想』(青土社)、『現代日本政治史』(ちくま新書)。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
平成政治を問い直す【5】「改革の政治」における民主党政権の位置
1990年代以降の日本政治を席巻した「改革の政治」とは、「政治主導」によって行政機構の縮小再編成を行う政治であった。そして2009年に誕生した民主党政権は、「改革の政治」の延長であると同時にそれへの抵抗であるという、複雑な二面性を帯びるものであった。
「改革の政治」の文脈に民主党政権を位置づけるにあたり、民主党の主要な人材輩出源となった松下政経塾に遡る必要がある。松下政経塾は、1979年、資金や知名度のない若者に政治家への道を拓いてやろうと、松下幸之助が70億円の私財を投じて神奈川県茅ケ崎市に設立した政治家養成機関である。
塾生の「思想的背景」は問わないとされながら、政経塾は松下独自の政治観に依拠していた。それは第一に「政治に経営感覚を」という言葉に示される簡素で効率的な政府であり、最小コストで最大の行政サーヴィスの実現する「政治の生産性の向上」であった。第二に、高坂正尭、西尾幹二、佐藤誠三郎など政経塾発足時に協力した著名人の顔ぶれから見る限り、政経塾は歴史観においては伝統主義、外交安保においては現実主義に依拠する「保守系」であったといえる。総じて政経塾の基本姿勢は、松下独自の経営的行政観の土台の上に、広義の「保守」の思想が接ぎ木されて構築されたものといえる。
1980年代前半、入塾希望者の面接に際して松下の採用基準は「運と愛嬌」というシンプルなものであり、松下に見初められて野田佳彦、山田宏、松原仁、樽床伸二、松沢成文らが入塾している。松下の謦咳に触れた初期の塾生は、命を削って政経塾に賭けた松下の思いに打たれ、塾長との強い精神的絆を醸成したようである。
1989年、松下が死去すると政経塾への志望者も激減する。しかし、政経塾の危機を救ったのが、1992年、細川護煕が旗揚げした日本新党であった。細川は政経塾出身者とも会談を持ち、新党への協力を要請。山田宏や中田宏、野田佳彦や前原誠司など政経塾出身者もこの機会を逃さず日本新党に合流する。松下幸之助なき今、無名の政経塾出身者たちにとって、細川は「担ぐにはもってこいの神輿」(注1)であり、以後、政経塾出身者は日本新党の「実働部隊」となっていく。
1993年衆院選では「新党ブーム」が起こり、日本新党を中心に一気に15人の政経塾出身者が国会に進出した。1996年に民主党が結成されると、政経塾は主として民主党の政治家の輩出源となっていく。
総じて松下政経塾は、「自民党から出馬できなかった非自民保守系若手男性政治家」を輩出する機能を果たしていった。そして1990年代以降の日本政治において、「非自民保守系」に残されたアジェンダは、「古い自民党」を保守の立場から否定すること、すなわち「守旧保守」を「改革保守」の立場から批判し、談合政治に代えて強いリーダーシップを、利益配分に代えて規制緩和を唱えることしかなかった。その意味で松下政経塾は、「改革の政治」を民主党側から突きあげるための政治家輩出機関としての役割を担ったといえよう。
(注1)=出井康博『松下政経塾とは何か』新潮新書、2004年、14頁。