平成政治を問い直す【5】「改革の政治」における民主党政権の位置
2019年12月01日
1990年代以降の日本政治を席巻した「改革の政治」とは、「政治主導」によって行政機構の縮小再編成を行う政治であった。そして2009年に誕生した民主党政権は、「改革の政治」の延長であると同時にそれへの抵抗であるという、複雑な二面性を帯びるものであった。
「改革の政治」の文脈に民主党政権を位置づけるにあたり、民主党の主要な人材輩出源となった松下政経塾に遡る必要がある。松下政経塾は、1979年、資金や知名度のない若者に政治家への道を拓いてやろうと、松下幸之助が70億円の私財を投じて神奈川県茅ケ崎市に設立した政治家養成機関である。
塾生の「思想的背景」は問わないとされながら、政経塾は松下独自の政治観に依拠していた。それは第一に「政治に経営感覚を」という言葉に示される簡素で効率的な政府であり、最小コストで最大の行政サーヴィスの実現する「政治の生産性の向上」であった。第二に、高坂正尭、西尾幹二、佐藤誠三郎など政経塾発足時に協力した著名人の顔ぶれから見る限り、政経塾は歴史観においては伝統主義、外交安保においては現実主義に依拠する「保守系」であったといえる。総じて政経塾の基本姿勢は、松下独自の経営的行政観の土台の上に、広義の「保守」の思想が接ぎ木されて構築されたものといえる。
1980年代前半、入塾希望者の面接に際して松下の採用基準は「運と愛嬌」というシンプルなものであり、松下に見初められて野田佳彦、山田宏、松原仁、樽床伸二、松沢成文らが入塾している。松下の謦咳に触れた初期の塾生は、命を削って政経塾に賭けた松下の思いに打たれ、塾長との強い精神的絆を醸成したようである。
1989年、松下が死去すると政経塾への志望者も激減する。しかし、政経塾の危機を救ったのが、1992年、細川護煕が旗揚げした日本新党であった。細川は政経塾出身者とも会談を持ち、新党への協力を要請。山田宏や中田宏、野田佳彦や前原誠司など政経塾出身者もこの機会を逃さず日本新党に合流する。松下幸之助なき今、無名の政経塾出身者たちにとって、細川は「担ぐにはもってこいの神輿」(注1)であり、以後、政経塾出身者は日本新党の「実働部隊」となっていく。
1993年衆院選では「新党ブーム」が起こり、日本新党を中心に一気に15人の政経塾出身者が国会に進出した。1996年に民主党が結成されると、政経塾は主として民主党の政治家の輩出源となっていく。
総じて松下政経塾は、「自民党から出馬できなかった非自民保守系若手男性政治家」を輩出する機能を果たしていった。そして1990年代以降の日本政治において、「非自民保守系」に残されたアジェンダは、「古い自民党」を保守の立場から否定すること、すなわち「守旧保守」を「改革保守」の立場から批判し、談合政治に代えて強いリーダーシップを、利益配分に代えて規制緩和を唱えることしかなかった。その意味で松下政経塾は、「改革の政治」を民主党側から突きあげるための政治家輩出機関としての役割を担ったといえよう。
(注1)=出井康博『松下政経塾とは何か』新潮新書、2004年、14頁。
1996年9月、鳩山由紀夫のイニシアティヴの下、衆参あわせて57人の国会議員が参加して民主党が結党される。結成当初の民主党は、「友愛」を唱えた鳩山と薬害エイズ問題で国民的人気を得た菅直人の二枚看板を前面に押し出したが、党内の最大勢力は社民党出身議員であり、民主党を支えた足腰も労働組合であった。
1997年12月の新進党解体は、民主党にとって最初の転機となる。鳩山と菅は新進党から分岐した保守系諸党派に合流を呼びかけ、1998年4月には羽田孜、岡田克也、石井一らの民政党が民主党に合流し、代表に菅、幹事長に羽田孜を就けて新民主党を結成。これによって、政界再編の過渡期に現れた自民・新進・民主の三極構造は解消され、以降、自民と民主による二大政党的構図が固まっていった。
しかし、新進党離党者からなる民政党を受けいれたことは、民主党に複雑な変容をもたらすことになった。民政党は、外交安保において「保守派」、経済については新自由主義的な「改革主義」を採る政治家たちの一時的避難所であった。そして、新民主党において存在感を増したのは社民党出身者に代わって民政党出身者となり、以降、「本籍」と呼ばれる出身政党別のイデロオギー的混淆が民主党を悩ませていく。
それは「民主中道」という新民主党の基本理念にも現れている。これは旧民主党が唱えた「民主リベラル」に対して民政党が「保守中道」を主張し、細川護煕が間を取りもって提示した折衷案であった。「民主中道」なる概念を、菅など旧民主党のリベラル勢力は「センターレフト(中道左派)」と解釈したのに対し、保守系議員たちはこれを「保守中道」と受けとめ、新民主党はその結集軸をめぐって微妙な同床異夢を抱えたままの船出であった。
このような民主党の混淆的性格は、2000年代前半、小泉構造改革への秋波と徹底抗戦とのブレとして現れた。小泉政権期の民主党には、一面において、小泉改革をまやかしと批判し、構造改革を断行できるのは「しがらみ」のない民主党だと主張する「反小泉」があった。鳩山は時に「小泉首相の足ではなく首を引っ張る」と主張し、2005年に党首を引き継いだ前原も小泉に「改革競争」を仕掛けた。2000年代前半の民主党は、基本的には「新自由主義的な経済改革アジェンダを中心として融合していた」(L・J・ショッパ)といえる。
しかし、民主党による小泉との「改革競争」は失敗に終わったといえよう。小泉によって自民党は政権の座にいながら「守旧保守」から「改革保守」へのしたたかな脱皮を遂げ、「改革」というシンボルと同一化したのに対し、野党の民主党ができることはアイデアの提示だけであり、小泉が民主党のアイデアを盗んだと訴えても「負け犬の遠吠え」にしか映らなかった。
他方、民主党内にはもう一つの「反小泉」、すなわち構造改革それ自体に抵抗して国民生活を温めようという「反小泉」の動きもあった。その媒介となったのが自由党を率いた小沢一郎の民主党入党であり、これによって民主党は「改革の政治」がもたらした弊害の是正に焦点をあわせるようになったのである。
1993年に自民党を飛び出て「改革保守」の先鞭をつけた小沢であったが、2000年代以降の小沢は「国民の生活が第一」という疑似社民主義への再度の政策転換を遂げており、2003年の民由合併は民主党の今再びの性格変容をもたらした。
小沢は2006年に民主党代表に就任すると、連合との緊密な関係構築をなしとげ、民主党を舞台に「疑似社民化した利益配分政治」を実演していく。
2006年、小沢執行部は「政策マグナカルタ」を発表。この基本方針は、それまでマニフェスト作成において脇役に甘んじていた赤松広隆ら旧社会党グループが練り上げたものであった。2007年参院選のマニフェストでは、徹底した行政改革によって15兆円の財源を生みだし、それらによって子ども手当、高校授業料無償化、農家所得補償制度を実現すると訴えた。
総じて、小沢時代の民主党の性格は、かつて自民党で利益配分政治の中心を担った小沢と、旧社会党グループの左派的な政策課題とが、民主党という舞台で交錯融合して生じた「疑似社民化した利益配分政治」で
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