旦那は在日コリアン、私は日韓ダブル、そして子どもたちは二重国籍…
2019年12月01日
範疇と境界は常に葛藤関係にあるんじゃないかと思う。範疇化する条件を何に絞るのか、線引きをどこにするのかがいつもややこしい問題だ。
この範疇と境界の問題を「民族」に置き換えて考えると、日韓のダブルで生まれた私は、日本人でも韓国人のどちらでもなかったり、どちらでもあったりするのが日常茶飯事だ(『日本人よ、韓国人よ、在日コリアンよ、私は私だ!』参照)。
境界人と銘打っても、その境界があやふやで信じるに値しないことは、身をもって経験している。
だから、昨今、公にも出てきているLGBTに関しても、一般的に区切られている「男と女」の性別が、その区切り自体があやふやなもので、危ういものだということもすぐ納得できる。
また一言で、LGBT、ジェンダーと言っても、これまた人それぞれ違い一括りできないものだ。その人その人を把握する必要がある。
所詮、範疇化なんぞ、人間が便宜上勝手に作り出したものなのだから、そもそもそこを絶対視すること自体バカげているのだ。
うちの家庭には、韓国籍の在日コリアンの「ダンナ」と、日韓ダブルの日本籍の私、そして日本と韓国の二重国籍の子どもが二人いる。
一般的な日本や韓国の家庭から見ると、この四人の境遇は一緒くたにされてしまうが、私たち両親はそれぞれの違いをはっきり認識している。
まず国籍の違いは、制度上や権利の違いをもたらす。私にとって韓国にある日本領事館にはパスポートや行政的手続きなどで馴染みがあるが、ダンナは行く必要すらないので、その存在自体関係がない。どこにあるかもはっきり知らない。
子どもは、日本籍か韓国籍かいずれ国籍を一つに選択しなければならないらしく、きっと将来選択する時には悩むだろう。生まれた時にダンナの戸籍に入っていれば、韓国籍でありながら政治参与以外は日本人と同じ権利のある在日コリアンとなったのであるが、うちの場合、色々な諸事情でいずれ国籍のどちらかを捨てなければならない。つまり、うちの子どもは在日コリアンにはなれないのである。
家族四人のハード面での違いは大まかには以上のようなものであるが、最近、子どもの成長につれてソフト面での違いも見えるようになってきて面白いと思う。
日本で生まれ育った私とダンナは考え方が似ている。コミュニケーション方法や問題に対する対処方法が似ている。しかし、少し違うのが、小学5年生の上の子だ。
以前のコラム『思った事をすぐ口に出す韓国の「伸びしろ」』でも触れているが、上の子は「イヤ!」「ダメ!」「一緒にやりたくない。」などと友達にはっきり断ることができる。
これは、私やダンナにとっては、ストレスを感じながら相当頑張らないとできないことだ。それを難なくやってのけている娘を見ると、押しが強く(私から見ると)自己主張のはっきりしている、韓国の影響をしっかり受けて、それを自分のものにしているのが見えてくる。
それに輪をかけるのが、小学1年生の末っ子である。彼女が2、3歳の時、彼女が取った行動にダンナと思わず顔を見合わせたことがある。スナック菓子をもらった末っ子は菓子を一つ手に取り、私や周りの人にまず食べさせようと差し出したのである。
この習慣(習性)は韓国の独特な文化で、特に食べ物などは周りの人と一緒に分けて食べようとする。逆に一人で食べていると、おかしな目で見られることがある。私は、この分け与える精神を良いものとして捉えているのだが、娘はその習慣を韓国の託児所で自然と身に付けていた。私たち親には無い習慣であるから、良いことだと喜んだものである。
末っ子は10か月の時から毎日約7時間ほど韓国の託児所に預けていたので、食生活も「ザ・韓国」であった。
洋食はあまり口には合わないらしく、みそ汁などの汁物にご飯を混ぜて食べるのが好き。朝、パンを食べさせようものならプイとそっぽを向いた。ケーキやクッキーより蒸しパンやお餅、茹でたり蒸したトウモロコシやサツマイモが好きだった。
うちの家庭は、多文化家庭(韓国では国際結婚した家庭を多文化家庭と呼ぶ)で、ダンナは韓国伝統音楽が職業で、韓国でも「変わった」家庭に思われている。
そんな私たちでも「韓国寄り」「日本寄り」が垣間見れて面白い。私からすると、特に末っ子は、私には無い行動パターンや考え方なので、たまに宇宙から来た異次元の人間みたいに不思議に思えることもあるのだが、違いを見つけるたびに感心したり面白がったりできるし、また私には持ち得ない韓国独特の文化や社会の影響を受けて育っている姿にたくましさをも感じる。
今回は、「日韓境界人あるある」話に終始するような気がしてきた。そこで、もう一つ。
最近、日本からお客様がいらした。その方は在日コリアン1世で6歳の時に渡日し、現在は事業で成功しておられるようだ。仕事柄、日本と韓国を行き来することもあり、従業員の中にもニューカマーの韓国人が多いらしい。
だから、日本に住んでいても毎日韓国語を使っている。その彼が一言こう言った。
「最近、日本と韓国を比較することに疲れる時があるわ~」
私は大きくうなずいた。自分と同じ思いの人がいることに驚いた。これって、きっと、日韓境界人あるあるなのである。
そう、私は最近疲れている。道を歩いていても、テレビを見ていても、「ああ、韓国的だな」とか「日本独特だな~」と無意識のうちにそんな言葉が頭によぎる。自然と頭に出てくるその台詞に、自分自身がうんざりするのである。
できれば、そんなことなど考えず、フツーに道を歩きたい。フツーにテレビを見たい。日韓ダブルに生まれたり、在日コリアンとして生まれたりすると、日本と韓国は自分を構成するそれ自体なので、意識しない方が不自然で無理があり、自己否定につながり、とにかく、よろしくない。
でも、私はこの方ずっと日韓文化比較や日韓文化理解をしてきて、それを通して自分を理解してきたので、日常の一部分になっている。だから飽きてきたのである。疲れてきたのである。そして、これは絶対、日韓境界人あるあるなのである。
昔、アメリカに韓国舞踊を教えに行っていた時、あるアメリカ人が日本と韓国の位置関係や日本と韓国がどのように違うのかも分からず、だいたい同じ所にあって同じ民族くらいに思っている人に出会った。「無知」っちゃぁ「無知」であるが、私は腹を立てるどころか、その発想(「無知」)を興味深く受け取った。
そうなのだ。世界から見れば韓国、日本、区別がつかないほど、どちらも小さい国で、同じようなところにあるので、地球儀をパッと渡されてもサッと指で日本や韓国を指せない人だっているんだ。
「日本も韓国も分かんないよね~」みたいな感覚が、私には心地よかった。今となっては懐かしいし、日本も韓国も分からない人たちが多い地域で少し暮らしてみたいという願望さえ芽生える。
さて、最後になるが、最近の日韓関係その後である。
私は、ジャーナリストや研究者ではないので、申し訳ないが、私なりの立場で日韓関係の雰囲気を伝えることにする。
下の写真は、韓国の公立小学校にある図書室の掲示板である。
掲示板左側は児童がいろんな国の事を勉強して分かったことなどを絵と共に紹介している。5つの国が紹介されているが、たまたまだと思うが、その中に日本が二つ入っている。紹介の中身は、ドラえもんなどのアニメの事、そして着物などの伝統文化のことだ。
掲示板の右側には、日本でも有名な木村裕一著「あらしの夜に」の感想文が飾られている。反日や「NO ABE(安倍)」、日本製品不買運動など日韓の政治的な暗い話はまだまだ続く気配だが、巷では日本だからといって一切を排除すると言う事にはなっていない。
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