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突出して「強運の人」だった中曽根元首相

長寿に恵まれ、時代の転換期に表舞台に立ち、自民党の党内事情も追い風に

田中秀征 元経企庁長官 福山大学客員教授

 中曽根康弘元首相が101歳という長寿を全うして鬼籍に入った。しかも、今までただ生きていたわけではない。最期まで一定の政治的影響力を維持し、行使したのだから、稀有の政治家といっていい。

 2003年、86歳の時、小泉純一郎首相(当時)に引退を勧告され、不承不承それに従った。そのときの思いを、自ら詠んだ「暮れてなほ 命の限り 蟬しぐれ」の一句にこめた。そして、引退後もこの句のとおり、最後の最後まで鳴き続けた。

 死ぬまで国会に在職するつもりだったのだから、引退勧告を受けたことはさぞや無念だったであろう。記者会見では、子どものように取り乱している印象を受けた。中曽根氏を引退に追い込むといった“暴挙”は、小泉氏の他には誰もできなかったろう。

中曽根康弘氏の遺影に手を合わせる人たち=2019年11月30日、群馬県高崎市の青雲塾

自民党綱領改定と中曽根首相

 私は政治家として、宮沢喜一元首相の近くにいのたで、中曽根氏とは距離があった。私の初当選は中曽根政権のときだが、その際、同期会の集まりで首相の中曽根さんと言葉を交わしたのが、いま考えてみると、面と向かって話をした唯一の機会だった。

 ただ、中曽根さんとは今も忘れられない“接点”がある。それは昭和60(1985)年のことだ。

 この年は自民党の結党30周年にあたっていた。当選1回の衆院議員であった私は、思い切って当時の金丸信幹事長に30周年を機に自民党の新綱領を採択するよう提案した。一介の若手議員の提案にもかかわらず、金丸幹事長はそれを快諾して、綱領の改定委員会の設置を党内に指示。言い出しっぺということで私も委員の一人に選ばれ、なんと起草のすべてを任された。

 私の草案は無修正のまま委員会を通ったが、その後、憲法改正についての部分をめぐり、院外の右派勢力を巻き込んだ一大騒動となった。

 草案では憲法改正について、「憲法を尊重する」を前面に出し、「絶えず厳しく憲法を見直す努力を続ける」としていた。最終局面で、委員会の事務局長だった海部俊樹氏(後に首相になる)が私の議員宿舎を訪ねてきて、「天の声」を勘案してくれと言ってきた。そのとき、「鶴の一声」という言葉も使ったから、中曽根・自民党総裁の修正希望箇所を伝えてきたのは明らかだった。

 結局、憲法改正に関するくだりは、自民党の政調会などで大きく手直しされるのだが、海部氏が伝えた三、四点の指摘箇所に、憲法改正のくだりはなかった。私の草案は憲法改正を否定するものではない。ただ、現行憲法を尊重すべきであることは強調した。その辺りのところを、中曽根総裁は理解してくれたと思い、うれしかったのを覚えている。

自民党総裁選で石橋湛山に投票した“青年将校”

 中曽根氏は、私が小学生だった頃から、改進党の“青年将校”と言われて、華々しく活躍していた。

 昭和31(1956)年末の自民党総裁公選では、決選投票で岸信介と石橋湛山の一騎打ちになったが、このとき中曽根氏は石橋湛山に一票を投じたという。「石橋対岸」の対決構図は、戦後保守政治の二つの流れの対決である。湛山びいきだった私は、中曽根氏のこの投票行動を大いに喜んだものだ。

 中選挙区の時代、群馬3区では、中曽根、福田(赳夫)両氏が死闘を繰り返していた。政敵の福田氏が岸氏の一番弟子なので、岸氏に一票を投じるわけにはいかなかったのだろうが、それだけが理由ではなかった。それ以上の背景があった。

 岸の“米国一辺倒”の外交姿勢に対して、中曽根氏は自主外交、アジア外交をより重視していた。それは、中国・韓国との友好を重視した「石橋外交」に深く共鳴していたからであろう。中曽根首相は、その姿勢を確認するかのように、就任直後、最初の訪問国に韓国を選んでいる。

「第9回青雲塾・中曽根康弘賞論文」の表彰式であいさつする中曽根康弘元首相=2017年11月、群馬県高崎市(中曽根康弘事務所提供)

構造改革の世界的な流れに乗って3公社を民営化

 一言でいうと、中曽根元首相は突出した「強運の人」であった。

 長寿に恵まれたのも、もちろんその一つであった。1987年に首相を退いた後に、10数年も衆院議員をつとめ、議員を辞めてからも、折りにふれて政治的言動を続けた。そして、歴史に記述される自らの「政治家像」を、時代にあわせて巧みに是正してもきた。

 中曽根氏にとって最も好運だったのは、時代の大きな転換期となった1980年 代に登場する機会を得たことであろう。

 まず、“中曽根時代”は東西冷戦の最終局面で、「東側」のソ連や東欧で数々の矛盾が吹き出し、「社会主義の黄昏」を感じさせた。

 これに対し、「西側」では、米国のレーガン大統領、英国のサッチャー首相という、強力な保守派のリーダーが力を振るった。中曽根首相はその「一角」に加わって、最強の自由主義陣営の布陣となった。主要先進国首脳会議の写真撮影で、中曽根首相がレーガン、サッチャー両首脳の間に割り込んでいる映像は象徴的だ。

 経済では、レーガノミックス、サッチャーリズムが一世を風靡(ふうび)し、官から民への民営化や、規制緩和が経済政策の潮流となっていた。こうした「構造改革」の世界的な流れは、中曽根行革、電電、専売、国鉄の3公社の民営化を強く後押しした。

 実は私の本会議で“処女演説”は、専売公社の民営化についての賛成演説だった。写真を見ると、耳を傾けて聴いている中曽根首相の姿も映っている。

田中秀征議員(手前)の国会演説を聴く中曽根康弘首相(筆者提供)

好運だった自民党の党内事情

 もうひとつ、80年代の中曽根氏にとって好運だったのは、自民党の党内事情だ。

 戦後自民党の指導者世代を振り返ると、中曽根氏は「第三世代」にあたると言っていい。しかも、そのアンカーであった。それゆえ、

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