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突出して「強運の人」だった中曽根元首相

長寿に恵まれ、時代の転換期に表舞台に立ち、自民党の党内事情も追い風に

田中秀征 元経企庁長官 福山大学客員教授

自民党総裁選で石橋湛山に投票した“青年将校”

 中曽根氏は、私が小学生だった頃から、改進党の“青年将校”と言われて、華々しく活躍していた。

 昭和31(1956)年末の自民党総裁公選では、決選投票で岸信介と石橋湛山の一騎打ちになったが、このとき中曽根氏は石橋湛山に一票を投じたという。「石橋対岸」の対決構図は、戦後保守政治の二つの流れの対決である。湛山びいきだった私は、中曽根氏のこの投票行動を大いに喜んだものだ。

 中選挙区の時代、群馬3区では、中曽根、福田(赳夫)両氏が死闘を繰り返していた。政敵の福田氏が岸氏の一番弟子なので、岸氏に一票を投じるわけにはいかなかったのだろうが、それだけが理由ではなかった。それ以上の背景があった。

 岸の“米国一辺倒”の外交姿勢に対して、中曽根氏は自主外交、アジア外交をより重視していた。それは、中国・韓国との友好を重視した「石橋外交」に深く共鳴していたからであろう。中曽根首相は、その姿勢を確認するかのように、就任直後、最初の訪問国に韓国を選んでいる。

拡大「第9回青雲塾・中曽根康弘賞論文」の表彰式であいさつする中曽根康弘元首相=2017年11月、群馬県高崎市(中曽根康弘事務所提供)

構造改革の世界的な流れに乗って3公社を民営化

 一言でいうと、中曽根元首相は突出した「強運の人」であった。

 長寿に恵まれたのも、もちろんその一つであった。1987年に首相を退いた後に、10数年も衆院議員をつとめ、議員を辞めてからも、折りにふれて政治的言動を続けた。そして、歴史に記述される自らの「政治家像」を、時代にあわせて巧みに是正してもきた。

 中曽根氏にとって最も好運だったのは、時代の大きな転換期となった1980年 代に登場する機会を得たことであろう。

 まず、“中曽根時代”は東西冷戦の最終局面で、「東側」のソ連や東欧で数々の矛盾が吹き出し、「社会主義の黄昏」を感じさせた。

 これに対し、「西側」では、米国のレーガン大統領、英国のサッチャー首相という、強力な保守派のリーダーが力を振るった。中曽根首相はその「一角」に加わって、最強の自由主義陣営の布陣となった。主要先進国首脳会議の写真撮影で、中曽根首相がレーガン、サッチャー両首脳の間に割り込んでいる映像は象徴的だ。

 経済では、レーガノミックス、サッチャーリズムが一世を風靡(ふうび)し、官から民への民営化や、規制緩和が経済政策の潮流となっていた。こうした「構造改革」の世界的な流れは、中曽根行革、電電、専売、国鉄の3公社の民営化を強く後押しした。

 実は私の本会議で“処女演説”は、専売公社の民営化についての賛成演説だった。写真を見ると、耳を傾けて聴いている中曽根首相の姿も映っている。

拡大田中秀征議員(手前)の国会演説を聴く中曽根康弘首相(筆者提供)

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筆者

田中秀征

田中秀征(たなか・しゅうせい) 元経企庁長官 福山大学客員教授

1940年生まれ。東京大学文学部、北海道大学法学部卒。83年衆院選で自民党から当選。93年6月、自民党を離党し新党さきがけを結成、代表代行に。細川護熙政権で首相特別補佐、橋本龍太郎内閣で経企庁長官などを歴任。著書に『平成史への証言 政治はなぜ劣化したのか』(朝日選書)https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=20286、『自民党本流と保守本流――保守二党ふたたび』(講談社)、『保守再生の好機』(ロッキング・オン)ほか多数。

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