市川速水(いちかわ・はやみ) 朝日新聞編集委員
1960年生まれ。一橋大学法学部卒。東京社会部、香港返還(1997年)時の香港特派員。ソウル支局長時代は北朝鮮の核疑惑をめぐる6者協議を取材。中国総局長(北京)時代には習近平国家主席(当時副主席)と会見。2016年9月から現職。著書に「皇室報道」、対談集「朝日vs.産経 ソウル発」(いずれも朝日新聞社)など。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
「脱北Uターン」で埋まる歴史の空白/それぞれの「生」を記録する会も始動
口を開く脱北者はまだ多くはない。それでも、ぽつりぽつりと証言する人、あるいは支援団体の誘いで証言する人も出て来た。
2019年11月17日、東京都内で開かれた集会で元帰国者3人らが聴衆の前に座り、生い立ちやこれまでの経験を話した。それぞれの証言から、北朝鮮での生活ぶりを拾ってみると――。
朝鮮総連の機関紙で働いていた姉と一緒に北朝鮮へ行った。帰国者は地元の人から「帰胞」(キッポ)、「在胞」(チェッポ)と小馬鹿な感じで呼ばれた。日本人拉致問題は脱北して日本に戻るまで知らなかった。北に住んでいると(国内外の)負の話はまったく分からない。鉄のカーテンどころか「ダイヤモンドのカーテン」といえるだろう。
北朝鮮の思想を100%信じていた姉は、北では老若男女が大学で勉強できるという報道を知って平壌の大学で勉強することを希望していた。帰国船が清津(チョンジン)の港に着き、招待所(宿舎)で配置先が決められる時、姉が「平壌の大学に行きたい」と言ったら「(嫁に行くか職場に配置される年齢に達した)22歳の女が大学など行けるわけがないだろう」と一蹴され、口をポカンと開けてすごくショックを受けていた。2年後、姉は精神を患い、入退院の末、1991年に亡くなった。
北では罪人と精神病患者は国民登録から外れ、統計からも外れる。
仕事は機械の設計だったが、(東西冷戦が終わったころの)1989年あたりからは給料が出なくなった。ソ連崩壊後には、1級とか2級とかいわれる大きな工場が全部ストップした。
1994年ぐらいから暴徒化する人たちが現れ、工場を襲撃して配線やモーターなど、カネになるものを奪うようになった。自分は日本からの仕送りで買った冷蔵庫やテレビ、マットレスを売って食いつないだ。
1996年ぐらいからは内陸部から中国国境に人が流れていくようになった。いざとなれば中国で生き延びることができるのではないかと。朝起きたら死体が家の前に転がっていることもあった。10歳ぐらいの子が、手にパンを握ったまま倒れ、笑みを浮かべて死んでいた光景が忘れられない。
日本では柔道の選手だった。1964年の東京オリンピックに出場したかったが、外国人は出られなかった。北に行けば北朝鮮代表になれるかもしれないし、柔道も勉強もタダで腹いっぱい食えると聞いて、家族の反対を押して渡った。
結局、代表入りはかなわなかった。特別扱いで腹いっぱいは食べられたのは、平壌で柔道をしていた数年間だけだった。
清津の港に着いて、現地の人の肌が黒いのと、道路がほこりだらけなのでびっくりした。1週間、招待所にいたが、飯の臭いがすごく、女性たちはみんな下痢していた。
向こうでは陶器工場で働いたり、(動員された建設専門組織)「突撃隊」の炊事係をしたりしていた。
私たち帰国者は現地の人を「ゲンちゃん」(現地、原住民の意味)と呼び、ゲンちゃんとは付き合わなかった。ちょっと何か言ったら密告するから。だから帰国者だけで遊んだり日本の歌を歌ったりした。日本は国籍こそ違ってもふるさとだった。
それでも帰国者の友達で収容所に入れられた人がいた。2000年に韓国に渡った。韓国の暮らしは生活保護をもらって住宅に安く住めるのでありがたいが、まだ本当の友人はいない。帰国者の友人がまだ北にいるはずだが、生死は分からない。