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在日朝鮮人「帰国事業」60年後の真実(上)

「脱北Uターン」で埋まる歴史の空白/それぞれの「生」を記録する会も始動

市川速水 朝日新聞編集委員

新潟港から北朝鮮へ 第一陣から60年

 1959年12月14日。新潟港から2隻の大型船が北朝鮮へと向かった。238家族の975人を乗せて。あれから60年が経とうとしている。

1959年12月14日、新潟港から北朝鮮・清津港へ向かう帰国船クリリオン号。甲板上の帰国者と見送りの人々、「マンセー(万歳)」のかけ声でごった返した

 「帰国事業」といわれる在日朝鮮人の北朝鮮帰還運動は、中断期間を含み25年間に及んだ。180余次にわたり、9万3340人が北朝鮮へと消えた。日本人配偶者ら約6800人の日本籍も含まれていた。

 なぜこれほど大規模な「帰国」が実現したのか。その後、彼ら、彼女らは北朝鮮でどんな生活を送っていたのか。脱北に至った経緯は――。

 金日成(キム・イルソン)国家主席から代々続く閉ざされた北朝鮮の体制と日朝の冷えた関係の下、長い間、実情が知られることはなかった。

 それが、情報も人も、少しずつ外に漏れ出した。脱北者という形で日本に戻ってきた人も増えてきた。韓国を終のすみかに選ぶ人もいる。この「脱北Uターン」は、北朝鮮生まれの2世以降を含めて日本に約200人に上るといわれる。韓国にも300~400人が定着しつつある。

 大半がひっそりと暮らすなかで、生活の実態を公にしてもかまわない、真実を知って欲しいという人たちも現れた。名前や姿をさらしても証言したいという人たちも出て来た。

 ようやく見え始めた歴史の真実を、記録集にとどめようとするグループも今年、本格的に活動を始めた。

無国籍の2世青年は帰化を待つ/母子再会「夢のよう」

 「どこか、ふわふわと宙に浮いている感じ。まだ夢を見ているようで。あっという間に2年経ってしまいました。本当の年齢とは別に、日本歴はまだ2歳なんです。誕生日が2つあると思っています」

 東京都内の繁華街。約束の時間にバイト疲れで遅れてきた20代の青年Kさんは、人並みを縫うように現れ、お辞儀を繰り返した。脱北して2年前に来日。コンビニなどで生活費を稼ぎ、夕方から夜間中学に通う。来春の高校進学を目指している。

 身分証には「定住者」と書かれている。日本国籍取得を目指して手続き中だが、今は無国籍の扱いだ。父親を北朝鮮に残し、その後も不安な日々の連続だったためか、時々強い不安に襲われる。名前は名乗れない。

脱北したKさんのスマホには、日本で再会した母親の誕生日を祝う手作りの海苔巻きや卵焼きが並んだ
 父母や叔母が1970年代に帰国し、Kさんは北朝鮮の港町に生まれた。

 幼い時に母親は先に脱北し、日本にたどりついた。Kさんは成人後、母を追うように、列車に乗り、川を渡り、国境の鉄条網と山を越えて中国側に逃れた。中国の朝鮮族にひそかに保護されて以来、東南アジアのブローカーに導かれて日本に来るまで3カ国を経由した。

 客観的に見れば、何度も命を落とす危険があったのに、あまりにも無我夢中で「何とかなるだろう」と思うしかなかったという。見知らぬ案内人にこのままついて行っていいのか、ひょっとして騙されているのではないか、突然、北朝鮮に送り返されるのではないか…と半信半疑のうちに何とか日本にたどり着いた。

 日本で支援者を通じて借家を与えられた。バイトをすれば生活費を稼げるし、日本語も上手になるはず。そう思って店員を始めたが、店員はほとんどが中国や東南アジアの人ばかりで、日本語の先生役にはならなかった。今は日本人店員が多い店を探し当て、接客と言葉の勉強中だという。

 北朝鮮でも親と離ればなれになったり、市場に出すトウモロコシやコメをつくる作業に朝から晩まで追われたりし、ろくに教育も受けられなかった。

 「日本ではこの歳で中学生ですが、ずっと勉強したかったので充実感でいっぱいです。向こうでは家事や農業で忙しいと言って学校に行かない人もけっこう多いし。教育はタダというのは噓です。先生へのお礼、賄賂など、特に小学校で一番お金がかかる。それに、帰国者や家族は相当頭がよくても良い大学には入れないのです」

 その直後、Kさんの近くで暮らす母親にも会った。2000年代初めに脱北したが、最初は息子を北に置いて行くつもりはなかったという。

 「配給が止まり、食い詰めて、生きるためには他人を騙すしかない。自分はそんな強い性格でもないし。アンコ餅を売っても生きるだけのカネが稼げなかった。代金をくれずに餅を持って行かれることもあった。このままでは一生ダメだと思い、中国に出て少し稼いだ後に北に戻るつもりだったんです」

 知人のさらに知人を頼って中国側に出たが、中国当局の取り締まりから逃れるため、都市部を離れて田舎で農作業を手伝う日が1年以上続いた。北京の韓国大使館に助けを請う手紙も用意したが、身元がばれた後にどうなるのかが怖くて出せなかった。やはり慣れ親しんだ日本を目指すしかないと思い、日本の親戚に連絡して日本のNPO「北朝鮮難民救援基金」の支援を受けられることになった。カンボジアなどを経由して日本に渡った。

 十数年後、中国に出た息子から電話があった時は驚きと感激で震えた。自分の携帯電話の番号が伝わっていた。生きていた。息子Kさんと成田空港で再会した時、抱擁は何十秒も続いた。

 再会の奇跡を生んだのは、北朝鮮の弱まってきた監視体制、賄賂さえあれば、ある程度中朝間を往来できる国境の規律の緩み、携帯電話の発達、日本や韓国の脱北者保護・受け入れネットワークの強化、身分の証明さえできれば日韓への渡航証明書が比較的容易に発給されることなどだった。

 「10年以上、離ればなれだった息子と奇跡的に会え、他人の目や耳を気にせず自由に話せるのが嬉しい。頑張って働けばちゃんと生きられる。夢のような生活です」

 母子とも「夢のよう」と同じ言葉を口にした。

口を開き始めた「Uターン元帰国者」たち

 口を開く脱北者はまだ多くはない。それでも、ぽつりぽつりと証言する人、あるいは支援団体の誘いで証言する人も出て来た。

 2019年11月17日、東京都内で開かれた集会で元帰国者3人らが聴衆の前に座り、生い立ちやこれまでの経験を話した。それぞれの証言から、北朝鮮での生活ぶりを拾ってみると――。

石川学さん(61)=東京出身。14歳の時に帰国。日本在住。

 朝鮮総連の機関紙で働いていた姉と一緒に北朝鮮へ行った。帰国者は地元の人から「帰胞」(キッポ)、「在胞」(チェッポ)と小馬鹿な感じで呼ばれた。日本人拉致問題は脱北して日本に戻るまで知らなかった。北に住んでいると(国内外の)負の話はまったく分からない。鉄のカーテンどころか「ダイヤモンドのカーテン」といえるだろう。

 北朝鮮の思想を100%信じていた姉は、北では老若男女が大学で勉強できるという報道を知って平壌の大学で勉強することを希望していた。帰国船が清津(チョンジン)の港に着き、招待所(宿舎)で配置先が決められる時、姉が「平壌の大学に行きたい」と言ったら「(嫁に行くか職場に配置される年齢に達した)22歳の女が大学など行けるわけがないだろう」と一蹴され、口をポカンと開けてすごくショックを受けていた。2年後、姉は精神を患い、入退院の末、1991年に亡くなった。

 北では罪人と精神病患者は国民登録から外れ、統計からも外れる。

 仕事は機械の設計だったが、(東西冷戦が終わったころの)1989年あたりからは給料が出なくなった。ソ連崩壊後には、1級とか2級とかいわれる大きな工場が全部ストップした。

 1994年ぐらいから暴徒化する人たちが現れ、工場を襲撃して配線やモーターなど、カネになるものを奪うようになった。自分は日本からの仕送りで買った冷蔵庫やテレビ、マットレスを売って食いつないだ。

 1996年ぐらいからは内陸部から中国国境に人が流れていくようになった。いざとなれば中国で生き延びることができるのではないかと。朝起きたら死体が家の前に転がっていることもあった。10歳ぐらいの子が、手にパンを握ったまま倒れ、笑みを浮かべて死んでいた光景が忘れられない。

リ・チャンソンさん(78)=岡山出身。1962年に単身帰国。現在韓国在住。

 日本では柔道の選手だった。1964年の東京オリンピックに出場したかったが、外国人は出られなかった。北に行けば北朝鮮代表になれるかもしれないし、柔道も勉強もタダで腹いっぱい食えると聞いて、家族の反対を押して渡った。

 結局、代表入りはかなわなかった。特別扱いで腹いっぱいは食べられたのは、平壌で柔道をしていた数年間だけだった。

 清津の港に着いて、現地の人の肌が黒いのと、道路がほこりだらけなのでびっくりした。1週間、招待所にいたが、飯の臭いがすごく、女性たちはみんな下痢していた。

キム・ルンシルさん(72)=リ・チャンソンさんの妻。福岡出身。1960年に帰国。韓国在住。

 向こうでは陶器工場で働いたり、(動員された建設専門組織)「突撃隊」の炊事係をしたりしていた。

 私たち帰国者は現地の人を「ゲンちゃん」(現地、原住民の意味)と呼び、ゲンちゃんとは付き合わなかった。ちょっと何か言ったら密告するから。だから帰国者だけで遊んだり日本の歌を歌ったりした。日本は国籍こそ違ってもふるさとだった。

 それでも帰国者の友達で収容所に入れられた人がいた。2000年に韓国に渡った。韓国の暮らしは生活保護をもらって住宅に安く住めるのでありがたいが、まだ本当の友人はいない。帰国者の友人がまだ北にいるはずだが、生死は分からない。

帰国後の北朝鮮の実態などを証言する4人(左側後方)=2019年11月17日、東京都内、筆者撮影

着いた瞬間から「地上の楽園」に疑念

 ほかにも、支援団体による聞き取りを通じて、「帰国」した前後や日々の生活の中で、細かいことも分かってきた。1人や2人の回想では一般化が難しいが、相当数の同様の証言が集まったものもある。例えば――。

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