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アフガンに寄り添った中村哲医師の素顔

憲法九条を胸に井戸を掘り、宮沢賢治を愛した友を悼む

長野ヒデ子 絵本作家

井上ひさしさんと出会い、宮澤賢治を語る

 転勤族だった我が家はその後、神奈川県鎌倉市に転居しました。引っ越した先が作家・劇作家の井上ひさしさん・ユリさん夫妻の家の近くで、親しくなりました。

 雑談の中で、井上夫妻が「アフガニスタンについては、中村さんというお医者さんの発言が信頼できる」と言ったので、「中村さんなら旧知の仲。鎌倉に来てもらいましょう」ということになり、2001年11月に緊急報告会を開きました。

 井上ひさしさんを聞き手に、中村さんは「現地スタッフから、北部同盟のカブール進攻と同時にパシュトゥン人に対する迫害も始まった。路上に300人を超える首がさらされていたという報告があった」「自衛隊が参加したことで、日本に失望した人が多い」といった話をしてくれました。

 ユーモアを交えながら、大事な真実と深い考えを伝えるのが、中村さんのいつものスタイルです。この日も厳しい現実を、心に届く言葉で語りました。

中村哲さん追悼拡大滋賀県での宮澤賢治をめぐるセミナーで語る(左から)井上ひさしさん、才津原哲弘さん、中村哲さん=2004年、長野ヒデ子さん提供
 聴衆が大勢詰めかけ、舞台の上まで座っても会場に入りきらず、別室で音声だけ聞いた人もたくさんいました。大変な熱気だったことを覚えています。

 鎌倉ではその後も2回、円覚寺の塔頭(たっちゅう)で講演をしてくれました。お寺の静けさが心地よいと、ほっとした表情を見せ、近くのお店のいなりずしをおいしそうに食べていた顔が心に残っています。

 2004年5月には滋賀県能登川町(現・東近江市)で開催された宮澤賢治学会イーハトーブセンター・地方セミナーとして、中村さんと井上さんの講演と対談が催されました。催しを主管した当時の能登川町立図書館の館長、才津原(さいつはら)哲弘さんは、福岡時代のご近所でした。こうした縁がつながっていったのです。

 「辺境で診る 辺境から見る」と題されたこのセミナーについて、才津原さんは「天空からの贈りもの」と題して、次のような報告を記している(宮澤賢治学会イーハトーブセンター会報、2004年9月22日発行)。

 中村さんはスライドを見せながら、「貧しいから不幸せではない」「20年間をふりかえりまして、人助けというつもりはないではなかったが、助かってきたのは自分たちの方なのだ」などと語った。予定の30分が過ぎても、会場の人が耳をそばだてる話が続いていく。「賢治と哲」と題する講演をするはずだった井上さんは、「中村さんのお話を30分で理解するというのは無理。詳しく聞いたら涙が出ます」と急きょ聞き手に回り、「なぜ医者がサンダルづくりや、井戸掘りをするのか」「なぜ今、重機を操っているのか」など、宮沢賢治の生き方にもつながる中村さんの活動を掘り下げていった。参加者のだれもが「静かな元気」をお二人から手渡されて、それぞれの現場に帰った。

 才津原さんは、中村さんと福岡の同じ中学の出身で、クラスは違ったが同学年だったという。

 中村さんは宮澤賢治が好きでした。

 「いつも忙しくて、なかなかゆっくり読書する時間がないのだけれど、賢治の本はよく手にとる」と言っていました。

 アフガニスタンで、賢治の詩や物語を思いながら、星を見たり、風を感じたりする時、「救われた気持ちになる」のだそうです。

 中村さんは、力強い行動の人でした。そして文学的な人でもあったのです。

中村哲さん追悼拡大アフガニスタン東部、かつては「死の谷」と呼ばれていた砂漠が、用水路によって緑に=2015年7月、ペシャワール会提供

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筆者

長野ヒデ子

長野ヒデ子(ながの・ひでこ) 絵本作家

1941年愛媛県生まれ。 絵本作家。紙芝居、イラストレーションなどの創作、エッセイや翻訳も手掛ける。代表作に「とうさんかあさん」(石風社)、「おかあさんがおかあさんになった日」「せとうちたいこさんデパートいきタイ」(童心社)、など。紙芝居文化推進協議会会長。日本絵本賞、産経児童出版文化賞、久留島武彦文化賞受賞。

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