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小沢一郎「このまま死ねない」そして山本太郎

(25)民主党は役人に「お金がない、お金がない」と言われ終わってしまった

佐藤章 ジャーナリスト 元朝日新聞記者 五月書房新社編集委員会委員長

土地改良補助金をバッサリ削る

 日本最大級の巨大なしめ縄の下を背広姿の一人の男が歩いてきた。島根県出雲市の出雲大社、2010年5月20日午後3時前。長年の願望だったお参りと見学を終えた民主党幹事長(当時)の小沢一郎は、初夏の強い日差しが照りつける参道で、待ち構えていた記者団を前に語り始めた。

 「出雲と大和とは二つの大きな文化圏だったのだろう。2000年近くも前にこれだけ大きな国家の力、高い文化水準があったことは驚きだ」

 記者団の中でボールペンを走らせていた私のメモにはそうある。私はそのころすでに、小沢が歴史に深い造詣を持ち、知られざる読書の大家であることを知っていたので、出雲大社関係者の案内に貪欲に耳を傾ける小沢の姿に格別の驚きはなかった。

 古代大和朝廷とは別に、荒ぶる神スサノオノミコトの流れをひく出雲文化圏に強い関心を持つ小沢はこの時、直後の7月に投開票のあった参院選を「政治改革」のための重要な選挙と位置づけ、自ら島根、鳥取両県の山陰地方応援の旅に出た。

 私はこの応援旅行に同行取材したが、出雲大社見学の後の連合島根幹部との打ち合わせでは、冒頭にこう挨拶していた。

 「明治以来の中央集権、官僚支配を変えるのは容易なことではない。民主党が衆参で過半数を獲得しないと旧体制の抵抗を打破することはできない。参院選は最終戦だ」

 実際の選挙は、この時首相を務めていた菅直人の不用意な「消費税10%増税」発言で自民党に惨敗したが、その裏で日本政治はかつてない大きな変革の第一歩を経験していた。

 このことはあまり知られず現在もほとんど振り返られていないが、まさに小沢の挨拶の言葉通り「明治以来の中央集権、官僚支配を変える」「旧体制の抵抗を打破する」試みの大きい一歩だった。

 そして、この変革を仕掛けて実現させたのは、他ならぬ小沢だった。

 2010年度予算に大ナタを振るった小沢は、長年自民党候補者を育てるカネと言われてきた土地改良の補助金をバッサリ削り、前年度に比べてわずか36.9%にまで落とし込んだ。

 土地改良の補助金はそのまま農家個人の水田整備に直結するため、農家の票を動員しやすかった。このため、全国的には土地改良の歴史的役割はあらかた終わっているはずなのに、いつまで経っても大きい予算枠を保持し続けていた。

 そして、これこそが自民党=農水省構造改善局の文字通りの「金城湯池」だった。

 構造改善局は現在は存在せず、土地改良事業は農水省農村振興局に引き継がれている。土地改良をはじめとする補助金と自民党の集票構造を分析した名著『補助金と政権党』(広瀬道貞著、朝日新聞社)によれば、データは古いが、1980年の参院全国区に立候補した自民党公認、農水省構造改善局次長の47都道府県の集票割合と、同じ47都道府県の土地改良事業予算の配分割合とは「ただならぬ」ほど一致した。

 つまり、土地改良補助金が出ている割合がそのまま自民党の集票割合となっている構図だ。まさにこの構造を変えない限り、国民の金である税金の使い道は国民の側に戻ってこない。

 ここに初めて大ナタを振るった小沢は、国民の側に立った、まさに現代のスサノオノミコトだった。全国土地改良事業団体連合会の会長は、自自連立の時に小沢を利用した野中広務だったが、野中が直接陳情に訪れても小沢は顔を見せることさえなかった。

拡大全国土地改良事業団体連合会の集会に出席した同連合会名誉会長の野中広務氏(左)と会長の二階俊博・自民党総務会長(右)=2015年10月15日、青森市、肩書は当時


筆者

佐藤章

佐藤章(さとう・あきら) ジャーナリスト 元朝日新聞記者 五月書房新社編集委員会委員長

ジャーナリスト学校主任研究員を最後に朝日新聞社を退職。朝日新聞社では、東京・大阪経済部、AERA編集部、週刊朝日編集部など。退職後、慶應義塾大学非常勤講師(ジャーナリズム専攻)、五月書房新社取締役・編集委員会委員長。最近著に『職業政治家 小沢一郎』(朝日新聞出版)。その他の著書に『ドキュメント金融破綻』(岩波書店)、『関西国際空港』(中公新書)、『ドストエフスキーの黙示録』(朝日新聞社)など多数。共著に『新聞と戦争』(朝日新聞社)、『圧倒的! リベラリズム宣言』(五月書房新社)など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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